【掌編ホラー】留守番
鬱々とした重い雲から、しとしとと夏の雨が降ってきた。じっとりと肌にまとわりつくような湿気が部屋に充満している。頭が重くなるようなこんな日には、必ず思い出すことがある。その日も今日のような嫌な雨が降っていた。私がまだ子どものころの話だ。
*
その日は母が親戚の法事に参列するとのことで初めて留守番する日だった。ただいま、と普段通りに飛び込んだのに、がらんどうの家からは何も反応がない。他人の家に帰ってきてしまったような、奇妙な心地がした。黙って靴を脱いでいると、昼過ぎから降っている雨が屋根を叩く音だけが響いてくる。運動靴の靴紐を中途半端に解いた状態で脱ぎ散らかすと、二階の自室へと駆けあがった。
留守番するにあたって母と約束していたことは二つ。誰がきても絶対に玄関を開けないこと。おやつを食べるのは宿題が終わってから。机に向かいだすと妙な違和感は自然と消えていった。そのまま母の言いつけ通り宿題を終え、おやつを食べにリビングに降りようとしたときだったと思う。
小さな音を耳が拾った。違和感を感じないくらいの、こつん、という小さな音だった。例えるなら指の関節でそっと何かを叩くような音。ノックにしては控えめな、指先で触れるには少し強い音。誰か――お隣のひろちゃんが遊びに来たのだろうか。そんなことを思って、階段から玄関の曇りガラスを眺めたけれども、いつも扉の向こうから手を振ってくる友人の姿はなかった。ならば気のせいかとそのままリビングに飛び込んだ。
しかし、テレビで再放送の時代劇を観ながらおやつを食べている間も、おやつの皿を片付けている間も、気のせいだと思ったその小さな音は続いていた。こつん、こつん、と控えめに、けれども途切れることはない。それが小一時間ほど続けばいよいよ気味が悪くなった。音の間隔が短くなっている気もした。少し開けたリビングの扉の隙間から勇気を出して玄関を覗き見たが、相変わらずそこに人影はおろか何の気配もなかった。
それを何回か繰り返してから、ふと気づく。不思議なことに玄関を覗いている間は音が止むのだ。いよいよ気味が悪くなってリビングでテレビの音量を上げれば、こつんという音も少し激しくなり、こん、こん、と骨ばった指が戸を叩くような音が続いた。
「誰か、いるの?」
リビングの扉の前に立って玄関に向けて声をかける。ドアから顔を出せば音は鳴りを潜める。先ほどまで確かに続いていた音は消え去り、再び雨音だけが耳に届いた。そこに人の気配はない。
もしかして留守番していると知ったひろちゃんの悪戯なのではないか。続く緊張に苛立っていた私は靴下のまま上がり框を飛び降り、ドアを勢いよく開けた。
しかしドアから顔を出しても誰の姿もない。
「ひろちゃん?」
人影どころか、そぼ降る雨で霞む門までの道には足跡一つなかった。やはり気のせいだ、そう言い聞かせながら玄関へと戻る。それでもリビングにいる気にはなれず、二階の自室へと戻ることにした。玄関から続く階段をつい耳を澄ませながら静かに上る。
ふと、階段の途中で足を止めた。別に何かの気配を感じたわけではなかった。それでもなんとなく、普段は止まることはない階段の半ばで私は立ち止まり、玄関を振り返った。
もちろん、そこには何もいなかった。しかし、見慣れたはずのそこになぜか違和感を覚えた。グレーの土間、脱ぎ散らかしたピンクのスニーカー。お母さんのサンダル。そして、その隣にぽつんとある見慣れぬ茶色い染み。
「え?」
思わず目をこする。目を凝らしてみても、やはり、土間には茶色い染みがあった。ちょうど手のひらくらいの大きさの、泥のような汚れの跡。先ほど飛び降りたときに、私が汚してしまったのかと足の裏をみたけれども、靴下はいつも通り、すこし灰がかかった白色だ。玄関を汚すような、ましてや茶色い汚れなどない。それならば、あれはなんだ。
目を見開いたまま動けない私の耳に、小さな音が届いた。ぺちゃ、という何か湿ったものが落ちるような。そして視界にまた一つ茶色い染みが増えた。
これはきっと何か良くないものだ。こみ上げる緊張感の中、ふと母の言いつけを思い出した。誰がきても絶対に玄関を開けないこと。それは、何故だったのか。思考を遮るように、再び控えめな音が耳に届く。ぺちゃ、という湿った音。また一つ、土間に汚れの跡が増える。ほんの僅かだが、こちらに近づく汚れ。ぺちゃ、ぺちゃん、と床を湿った平手で叩くような音がする度、少しずつ何かが侵入してくる。ぺちゃん、ついに上がり框まで来た染み。それは、薄茶の框の上で明らかに人の手の造形をしていた。五本の短い指が付いた小さな手のひらの形をした染み。得体のしれない何かが、この家に入ってきている。ずるりと四つん這いで上がり框を上る人影が脳裏に浮かんだ。何もいないはずの空間から見られている気がして、ひゅ、と喉が音を立てた。ぺちゃん、また少し家の中――私の方に向けて染みが近づく。悲鳴にならない声が唇を震わせた。
そのまま一目散に自室へ飛び込み震える手で扉を閉めると、机の下に潜り込んだ。鼓動がうるさいくらい鳴り響いている。その合間に聞こえる、ぺたん、と床を叩く音。明らかにこちらへと近づいてきている。今にも自室の扉が開いて、四つん這いの人影が目の前に現れるのではないか。そんな恐怖に苛まれながら体を小さく丸めて固く目を閉じた。
息を潜めてどれくらい時間が経っただろうか。いつのまにか途切れることなく続いていた音が消えていた。薄く目を開けると、すでに室内はうす暗くなっていた。そろそろ両親も帰ってくる時間だろうか。丸め続けた体は強張って痛くなってきていた。もう大丈夫だろうか。そもそも全てが私の幻だったのではないか。
少し様子を伺ってから、ようやく机の下から這い出す。四つん這いの状態で、ふと部屋のドアが薄く開いていることに気づいた。ざわり、と背筋が粟立つ。私は部屋のドアを閉めなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。確かにドアを閉めた音が耳に残っている。
思考はそこで止まった。ぎい、と音をたてて扉が揺れた。現れた隙間の向こうは暗く闇に包まれている。その、四つん這いになった私の目線の先。ぼんやりと黄色く濁った二つの円が宙にあった。ぐるりと動いて、それが私を確かに見る。それが暗闇に浮かんだ双眸だと気づくと同時に、濁った瞳が笑うように細く歪んだ。
その後のことはよく覚えていない。どうやら意識を失っていたらしい私を、気が付けば帰宅していた母が呆れた顔をして見下ろしていた。
「そんなところで寝て。宿題は終わったの?」
「……お母さん?」
「夕飯にするから降りていらっしゃい」
背中を向ける母にしがみつく。母は少し驚いたような顔をして振り向いた。
「どうしたの、留守番がそんなに心細かったの?」
泣きたいような気持ちで起こったことを全部言おうと口を開いて、しかし約束を破ったことが知れたら怒られるかもしれないと言葉を飲み込んだ。変な子ね、と笑う母に髪を撫でられてようやく緊張を解くことができた。
*
結局、今日に至るまでその日起こったことは誰にも話していない。けれども、と私は窓の外に降り注ぐ雨を眺めながら小さく溜息を零した。夏の昼下がり、雨が降る日にはその日のことを鮮明に思い出すのだ。それは――。
しとしとと窓の向こう側で降り続く雨音。そこに紛れるくらいの小さな音。こつん、と私を呼ぶその音が、今日も耳に届いた。
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