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「そして未来は、いずれにしろ過去にまさる。」

ハインラインの名著、「夏への扉」の一節である。


恥ずかしながら僕がこの小説を知ったのはほんの数年前だ。

ちょうど映画が公開されたころに、何かのラジオ番組で小説の方を特集していて、そこでこのフレーズが紹介されていた。

僕がそのラジオ番組を聴いたのは、キャンプからの帰り道の車中で、長野県の阿南町あたりを走っていたときのことだと思う。
番組のわりと終わりの方を聞き齧っただけだったので、物語の全容までは掴めなかったが、どうやらタイムスリップもののSFらしいことは分かった。SFらしいSFをほとんど読んだことがなかった僕は、それに対して曖昧模糊として謎めいたものという印象を持っており、そのイメージが車窓に映る深緑の木々に不思議と調和していると感じたことを覚えている。

そんな中、ラジオから聞こえてきたのが件名のフレーズだった。
その響きに、僕は光明のようなものを感じ、強く惹かれた。キャンプ終わりで疲れてはいたが、帰りに書店に寄り、「夏への扉」を買って帰った。

未読の人のためにストーリーへの言及は控えるが、SFに興味のない僕でも非常に楽しめる作品だった。

読後、何かにつけてこの言葉を思い出すようになっていた。
主人公が語ったときとは少し違った意味で、この言葉は僕に染み渡った。

そこには縋るような気持ちがあったのかもしれない。
未来が過去に勝らないとすれば、自分が生きるこの人生はなんなのか。

以前のエントリーで述べたことにもつながるが、僕は自分の人生に反実仮想的な妄想はしこそすれ、そのときどきの「現在」に絶望したことはない。
それでも、ライフステージの踊り場の端にあって、閉塞、あるいは穏やかな絶望のようなものを覚えることはよくある。

たとえば、僕にとっては大学というのは、それ以前の高校とも、それ以後の社会人とも独立したライフステージであると感じていた。
高校生とは、自由と責任が桁違いであると思ったし、また、社会人との違いは言うべくもないだろう。

大学生から社会人になるとき、多くの人は不安を感じるのではないだろうか。それは、もちろん具体的な懸案事項があってそれが引き起こされることもあるのだが、一方でそうした不安は、大学生という4年間ライフステージの踊り場から、新たに段を上り始めることへの抽象的な恐怖だと思う。

一方で、延々と続く踊り場も、また、真っ暗闇の家路を急ぎたくなるような焦燥を感じるものだ。独身で而立した僕は、その長い踊り場にあって、この自由な生活を満喫しつつ、次の階段へ足を掛ける友人を横目に、何か歩を急がさせられるような思いを感じながら生きていた。
そんなときに疑念が浮かぶのだ、未来はよいものなのかと。

社会人生活をスタートしたばかりのころは、毎日がつらかった。
受験で味わった成功体験とは打って変わって、毎日のように自分の無能さを提示させられ続ける日々。だが、そういった日々が続くことで、否が応でも成長させられ、それが明日への希望だった。
社会人生活も両手で数えられる限界が近づくと、一種の停滞が訪れた。

それがプライベートの長い踊り場とも重なり、行く手がふさがる思いで、立ち止まってすべてを諦めたくなる。
そんなとき、思いだすのだ。「そして未来は、いずれにしても過去にまさる。」

ちなみにこの言葉は、こう続く。

誰がなんといおうと、世界は日に日に良くなりまさりつつあるのだ。人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、機械で、かんで、科学と技術で、あたらしいよりよい世界を築いていくのだ。

ロバート・A・ハインライン「夏への扉」ハヤカワ文庫(2010) P.368

僕は、これには主人公の矜持を感じるとともに、作者であるハインラインの願望を感じる。この本が著されたのは1957年、ハインラインが28歳の年だ。冷戦の最中、米ソ宇宙開発競争は、この年、ソ連が人類初の人工衛星、スプートニク1号を打ち上げたことに端を発する。

冷たい戦争はこの後も長引くが、推し量るに、この頃にもなると、両国民はその環境に慣れてしまっていただろう。そんな中、この事件が米国民に与えた、再び戦争に巻き戻るかのような衝撃は、いかばかりであっただろう。
ハインラインがこの小説を書き始めたのは、スプートニク・ショックよりも前だったから、このことが直接影響してはいないかもしれないが、人類が宇宙へも手を伸ばすような科学躍進の時代に、倫理哲学的不安はつきもので、ハインラインは、それを振り払うかのように、あのように記したのかもしれない。

スケールは違えど、ハインラインも僕と同じような不安を抱えていたのかもしれない。
目の前にある壁を誰かが先に乗り越えてゆく焦り、自分の手がそこまで届いていない絶望、見えない道の先。我もそこに手を伸ばそうともがいたとき、自分はどうなるだろうか。

そんなときにできるのは、明日を信じて、怠けずにひとつ歩を進めることくらいだ。
それが、自分を前へ進める唯一の手段であり、絶対の方法である。目に映る景色は、小さな一歩では変化がないかもしれない。だからといって前へ進むことを諦めては、何もかわらないどころか、未来にあるのは風化した自分だけになってしまう。
一歩進めば、自分からなにか変われなくても、新しい環境が自分を規定してくれる。それが、未来が過去にまさる理由だ。

何か立ち止まったり、あるいは後退してしまったときは、生きる意味を疑いたくなる。
だが、立ち止まってしまう理由を明らかにできたという事実をもって、やはりそれは過去にまさるのだ。

この言葉をもって自分を鼓舞するとともに、この言葉に甘えることもなく、明日を築いていきたい。


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