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「感情とは価値判断のショートカットだ」
34歳の中でこの世を去った、SF作家伊藤計劃の「虐殺器官」からの引用である。
僕がこの本を読んだのは、十年以上前だ。書籍も手元には残っていなかった(実家には残っていると思う。)。だから、この文章がどんな文脈の中で紡がれたかを正確には記憶していない。
ただ、遺作のハーモニーよりは、この作品がお気に入りだったことは覚えている。それは、この言葉に強く惹かれたからだと思う。
この言葉は、十年以上僕の記憶の中にあって、感情によって理性が覆いつくされそうになるたびに、頭に浮かぶのだった。
この一節は、以下のように続く。
理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、何かを決めるということ自体不可能だろう。
感情と価値判断において、その高潔さが理性に劣後するというような考えは、しばしば一般になされる。「感情的」という言葉が持つマイナスイメージがそれを体現している。
僕がINFPだからというわけではないが、僕はもう少し感情を高く買っている。(簡易に判断されるMBTIが、科学的妥当性を十分に持っていないという指摘は十分に承知していて、それでも僕は一定の限度においてこれを利用する。これについては、また別の機会に述べたい。)
僕は、あくまで理性は、人間の補助的な部品であり、制動装置としての役割を果たすものだと考えている。
理知的な人類の叡智の結晶も、それを生み出したのは天才の情動だ。
である以上、感情が理性より醜いものではないと思う。
感情と悪意が結びついたとき、はじめてそれは醜いものになるのであり、それを押しとどめるのが理性であるべきなのだ。
人は、二元論が大好きだ。良いものは良い、悪いものは悪いと白黒つけたがる。現実には、そのようにきれいに分かれるものなんてほとんどなく、実際の善悪は、マーブル様だ。
それを理解した上で理性の重要性を説くのと、感情は単に原始的なものとして軽視するのは雲泥の差がある。
現代は、きわめて理性を要求される社会だ。
僕たちに与えられた自由と平等は、ここ10年ほどでまた新たなステージへ上がった。
しかし、僕たちは、それらを単なる幸運だと捉えていないだろうか。
虐殺機関の中で「ぼく」が語るように「完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、何かを決めるということ自体不可能」なのだ。それにもかかわらず、僕たちはあらゆる判断において完全に理性的であることを求められつつある。
最近、日経の「マイクロアグレッション」に関する記事が話題になった。
つまるところ、これは感情で価値判断をショートカットすることを禁じているのだ。
記事の中で例示されているのは、新入社員に対し「新人にしては、覚えが早いじゃない」と言うのは、新入社員は物覚えが悪いものという無意識下の差別であるというものだった。
このような言葉は、誰でも差別的な意図なしに使ったことがあるだろう。
それが、人を不快にさせる可能性が完全には否定できないとはいえ、これで不快になる人がそう多いとも思わない。
しかし、僕たちが希求した自由と平等は、そうした感情による発言を許さない。常に理性によって、感情による価値判断のショートカットを妨害することを試みなければならないのだ。
自由で平等な社会は、歓迎されるべきものだ。
しかし、人類史、いや生物史に類を見ない、理性による感情の完全克服を成し遂げようとするには、相当の努力を要することを、僕たちは理解できているだろうか。