[100記事目]"純粋な思考"を解放する
この記事でnote投稿100記事目になる。長かった。
そもそも何故私はブログを始めたのだろうか?
それは単に、世にいるブロガーへの憧れであった。パソコン1つでお金を稼ぐ、という経済的な側面もそうだが、何より文章に自身の人生を込めている彼らの姿に何とも言えない高揚感を覚えたのである。
はじめの10記事目くらいまでは、方向性がぐちゃぐちゃであった。だらだらと記事を書き上げ、なんとか1000文字程度の文章量を達成する。そんな具合であった。
転機が訪れたのは、「ドリーミング・アップ!公演最終日をめぐる回想」シリーズの執筆である。書き上げていくうちに明らかに、その他の記事と比べて心の中が満たされる感覚を覚えた。私にとって、エッセイ形式で自身が感じた感情を綴ることが、ある意味自身の強みであることが明らかになった。それからはそのような記事の執筆も増えた。ちょっとずつアクセスも伸びていった。ハマりにハマって毎日投稿を継続していった。
しかしながら、そうしていくうちに、段々と数字を追い求めていく自分が発現した。ダッシュボードを見れば一喜一憂。少しでも数字を伸ばすために、毎日投稿を自身に義務化していた。それでも、プラットフォームには1記事目でnote公式のおすすめ記事に載るレベルの天才たちが平然と姿を現している。そんな彼らを見て、より一層焦燥感に苛まれた。
どんな時もブログのことが頭にあった。大学の講義中、自転車、食事中、挙句の果てに恋人とデートしている時ですら、noteの原案や構成が頭を常によぎる始末である。結果、日常生活への影響が馬鹿にならなくなったため、最近になって毎日投稿を中止した。
私にとって、習慣化と依存は同義である。人生を前に押し進めるのは、私が知る限り習慣化が一番着実なものだと理解しているーが、ひとたび何かを習慣化した途端、それは依存性物質としての側面を私に見せてくる。
アクセスが伸びない焦燥感、いつオワコン化するかの不安、アイデアが出ない怒り…。
これもひとえに、note記事の執筆の目的が、いつの間にか純粋な"私のため"ではなく、数字という無機質なデータのためへとシフトチェンジしてしまった事に起因する。
いや、結局のところ、誰にも読まれないのであれば、いくら自分のためとはいえやる気を失くしてしまう。それでも、ひとたび数字意識を持ち始めると、このように依存症と化してしまうのだ。
初めて書いたプロフィール記事においては、以下のような自己評価を下している。
皮肉なことにも、そう自ら述べる媒体であるnoteにおいてですら、その自身のネガティブな性格特性が自らに災いしたのである。
ここで改めて本ブログの目的を整理したい。
まず第一に、アクセス、フォロワー、収益を増やすことではない。勿論、それが副産物として結果に表れるのならば嬉しいに越したことはないが、それを第一目的とした途端、自身の性格上ワーカホリックと化す危険性がある。
やはり私にとってのブログの目的とは、これまでの人生経験からくる自身の思考の整理が1番である。そして、そういう"自分に素直な記事"ほど、結局のところ読者の反応も良かった。
そういうわけで、これからも"毎日投稿"という手段の目的化ーもとい"呪縛"から解放し、何にも縛られることがなく、自身の思考の赴くままに文章を綴っていきたい。
おしまい