冷笑主義との決別
noteはじめてみました。
Twitter (現:X)では文字数的に書ききれないし、ログが流れるし。
じゃあアメブロとかでもいいかと言われれば別にそれでもいいのだけれど。
今までnoteを使わなかった理由としては、
note特有の意識の高さ(先入観)に抵抗があったから。
ブログでやりゃいいことをわざわざ直接的な収益化の手立てのあるnoteで書いている人たちのその行動力に羨ましさみたいなものや嫉妬の感情もあり、同じ土俵に立つことへの抵抗もあった。
最近ポッドキャストを始めて、自分の思考を言語化して出力することに関心が湧いてきた。
今までも別になかったわけでなくTwitterで滑りながらもレスポンスがなくても、なんとなく面白いことを言っているつもりで発信はしていたのだけれど。
問題は情報発信する自分を客観的に見るセンスが絶望的にないことなのだ。
と思う。
と思っていた。
でもそれは自分の場合がそうだからという一つの視点でしかない。
他人が自分をどう見ているかとかは本来気にせず発信してするべきなんだ。
それが正解かどうかはわからないけど、今はなんとなくそんな気がしている。
今までラジオやポッドキャストをやる機会が(ごく稀に)ありながらも、
自分の声が嫌いだからほとんど出演を断っていた。
自分の声をバカにする人がいるからではなく、
自分が自分の声を聞いたときにバカにしてしまうから。
ちょっと話は飛ぶが
今までそう思っていた、固定観念にとらわれていた理由としては
思春期に2ちゃんねるに入り浸っていたからだろう。
10数年来前の2ちゃんというものは(今は知らないが)冷笑主義が平常だった。
何かあればすぐ「※但しイケメンに限る」だの「スイーツ(笑)」だの、
カースト上位者やメインカルチャーに対して最下層に固定した立ち位置から横槍を刺すのが平常。
しゃしゃってるとすぐ晒し者にされる。
今思えばそのしゃしゃっている人間というのは決して勘違いしている人だけではなかったと思う。
確かに自分がお調子者キャラだと勘違いして寒いことをしている人はいたが、本当に人を惹きつけるようなお調子者も出る杭として認識されればボロカスに叩かれるような世界。
ニコ厨を叩くVIPPERぐらいの世代だろうか。
まさに自分はニコ厨を叩くVIPPERだった。
だいぶ話は逸れたが
自身がないから何もできないと思っていた。
だけども本当は自信がないのとは少し違って、
無様だったり滑稽だったりすることを恐れていたのだと思う。
じゃあこれは開き直りなのかと言われるとそうでもない。
閉じ切った価値観を崩すという意味では開き直りとも言えるが。
じゃあ何が正解か教えてくれよって話
多分納得できる答えは簡単には出てこないんだろうな。
どうしても自分は目に見える結果じゃないと認識できないから。
自分の中で成長したなぁとか勉強になったなぁとか思うだけじゃダメで、
どれぐらい数字になったとか、結果何が得られたとか、そういう納得できるエビデンスがないと自分を認められない。
多分集団の中での冷笑主義で生きてきたから、自分だけの基準で何かを評価できないんだろうな。
そんなこんなで、この先の無い冷笑主義からの脱却を目指して、
自分の行動や判断を冷笑せずいろいろなことに挑戦してみようと思ったのでした。