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自分の才能を見つめる、誰かの才能を見つける。月と六ペンス、から

先週は新宿のテルマー湯で、コルクラボの仲間と

まったりしながら気ままに対話してみる会(適当に集まって適当に解散するゆるいタイプの)をやってみた。

テーマは母性父性、自己受容、信じること、寂しさについて、、

最後の方は古典を学ぶ意味、生きる意味はセレンディピディで見つかるかもしれない話とか、曖昧なものを愛でたい!とか無目的に学んでみたいとか、連歌が趣深すぎるとか。

そんな話を思いつくままに話し、返し、発展し。
こういうやりとりができると、魂が喜んでるような感じがして嬉しい。

その中で、「何かの分野を極めたもの同士って、分野が違っても分かり合えたりするよね。それが羨ましい」

そんな話が出た。

プロ棋士と、野球選手が、全く分野が違っても「ああ、それはそういうことだね」と通じ合ったりするような。

想像するに、やっていることは違ったとしても

そこに至るまでの経験で身に付けた視界、視野、視座。物事を捉える解像度。そういうものが似ている(近いレベルにある)からなのかもしれない。

そんな美しい(だろう)瞬間を体感するために、何かを極めてみたいねえなんて話をして帰る途中に、ふとサマセット・モームの小説「月と六ペンス」に出てくる、ダーク・ストルーヴという三流画家のことを思い出した。

***

「月と六ペンス」はチャールズ・ストリックランドという男が、40を超えたある日家族も仕事も全てを捨てて突然に、画家を目指す物語だ。

不遇の時代を描き続けて過ごし、最後にはタヒチの地に愛と安寧を見出す。そして病魔に侵されながら集大成の作品を描き「この絵は燃やしてくれ」と言い残して死んでいく。

ストリックランドのモデルは、ゴーギャンとゴッホと言われる。ストリックランドの絵はゴッホと同じく生前ほとんど評価されることはなかったが、ただ一人、同じく画家であるストルーヴだけはストリックランドの才能を激賞する。

ストルーヴには、画家の才能がない。彼の絵は小説中の表現をして「どれもこれも絵空事で、偽善的で俗悪」と言われる始末だ。

でも彼は心から絵を愛し、率直に世の中を見る眼差しと、美しいものを見いだす才能を持っていた。

そして才能に対し、うっとり無条件に降参してしまうような危ういほどの素直さも。

物語の中で、彼は終始踏んだり蹴ったりだ。

その日の食事にすらこと欠くストリックランドを自宅で養い、その結果「崇拝するように愛して」いた妻のブランチをストリックランドに寝取られ、あげく家を追い出され。その上ブランチはストリックランドからの愛を得られないことに絶望して自殺してしまう。

そんな最悪の結果の後でも、なおストルーヴはストリックランドの才能に敬意を失わない。ストリックランドの描いた亡き妻の肖像画をもらい受け、彼の体を心配しながら、故郷のオランダに彼を誘う。

なぜ、ストルーヴはそこまでストリックランドの絵に惹かれたんだろう。

もしかすると、ストリックランドの絵に何かとんでもなく心が救われたとか、もう魅了されてどうしようもないとか「得難い何か」を受け取っていたのかもしれない。

その結果彼の人生の歯車は狂っただろう、でもそういうものに人生の中で出会えることは幸せなことなのかもしれない。

数年前に初めて月と六ペンスを読んだ時、私もストリックランドに憧れた。

「なぜあなたは絵を描くのか?」と聞かれて

「お前は、海に突き落とされたらどうする。岸に向かって無我夢中に泳ぐだろう。それと同じで俺は、絵を描くしかない。」

その情熱、何かに掻き立てられるような生き方を羨ましく思った。

一方のストルーヴも「魅了されてどうしようもない。この絵を描く男をどうにかしてやらなければ」と、掻き立てられてしまったのかもしれない。

ストリックランドの才能、ストルーヴのそれを見出す才能。

2つの才能がこの小説の中で報われたのかは、わからない。けれど人生の中で得難いものに出会った2人の男、と言う意味でどちらの人生もドラマチックだ。

それにストルーヴがストリックランドの絵に出会い、その才能を理解できたのは、何よりも彼が心から絵を愛していたからだろう。

私もそういうものに出会ってみたい。出会うために何かを通じて自分を掘り下げておきたい。そんな風に思った。

​そして、そういえば以前月と六ペンスをテーマにオリジナル曲を作ったことがあるのでした。


読んでいただきありがとうございます。「自分の個性」に気づき表現していける女性が世の中に増えるように、アウトプットをしていきます!