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【短編】とある豊穣の庭に捧ぐ

この石の階段を登ると、居心地の良い庭がある。
私への、私の命への、ただ一つのご褒美。
それは
世界
という言葉そのもの。

++

自然のままの深い緑と、太陽の陰をまとったせせらぎの上には
近代的で合理的なコンクリートの橋がかけられていた。
この無粋なコントラストは見慣れたら案外気にならないものだが、
見慣れてしまいたくないと思う。
透明なせせらぎの中の小さなカニが吐く泡や
雨の度に形を変える岸の、名もなき草が落とすしずくの音に
気づくことができなくなりそうで。

橋を渡ると見えてくる石の階段は、長い長い年月に晒されて自然と朽ちていた。
この神社と階段が造られたのは600年ほど前らしい。
流れ落ちた雨が果てしない時間をかけて削った跡。
登り降りした人々の草履と靴を想う。

欠けて削れた階段を、足元を気にしながらゆっくりと登りきって、赤い鳥居をくぐると
滅多に誰も立ち寄らない、静かで古びた神社とその境内がある。
「居心地の良い庭」とはこの境内のことだ。
境内を守るように囲み、大きく大きく城壁のようにそびえ立つ木々と、苔むした古い石の灯篭。
本殿の反対側には、遠慮がちにちょこんと設置されたブランコと鉄棒、かつては行事の度に使われていたであろう水の出ない水道の蛇口、忘れられた物置小屋は元社務所。

本殿の前にはくぼみを持つ大きめの石があり、そのくぼみは、馬に乗った神様が天から降り立った跡だという伝説があるようだ。そう言われると、大きな馬の蹄の跡に見えてくる。

いつ来ても誰も居ない、人の気配すらない神社。
ここに来る者は私以外に誰かいるのだろうか?
忘れられていこうとしている土地神様の、本殿に向かって手を合わせる。

私には、あなたが必要なのです。
まだここにいらっしゃいますか?

以前私は、そこにいる神様の事を知りたくて、ふもとの小さな集落の古い記憶を収集した。
ほんの十年前までは、集落の者はみな代々この神社の氏子であり、土地神様と地域の豊穣ための行事を行なっていたのだが、代替わりし、跡取りは街へ出て行き、主を失った田畑は次々と新しい住宅に変わり、そこには何処かから越して来た人々が住むようになった。
代々の氏子ではない新しい人々に、地域の行事や神社の補修のための費用についての理解を得ることは難しく、
みなが農家であった集落の人も今では多種多様な職業につき、合理性を尊ぶ時代の流れも手伝い、行事の手間や神社の手入れを惜しむようになった。
「みんな忙しいから」
そのありきたりで曖昧な言い訳で働き盛りは年寄りを納得させ、神社を中心とした行事は次々と無くなっていった。

今の人が昔の人よりも忙しいとは、本当だろうか?

神社の歴史600年の中の、たった十年。
ヒトの心変わりの早さを、詫びなければならない。
600年の間、集落の祖先は何世代が過ぎたのだろう?どれだけの人数がこの土地神様に守られてきたのだろうか?

忘れ行く神社について詳しく知っている人も、時と共にこの世から次々と去っていく。
小さな農村の集落には、言い伝えを文書に書き残す者も居ない。

この神社の神様の御名前は「宇気母智命」。
日本の神話に出てくる、命を繋ぐ五穀豊穣の神様。

++

ひとしきり手を合わせ、本殿のまわりにいくつもある小さな祠にもご挨拶をし、境内の端のベンチに腰を下ろす。
「あそこには何もないよ」
集落の人がそう言っていた事を思い出した。
そうは思わない。私にとっては、ここに世界の全てがある。

木々と風。舞う砂埃。秋にはトンボ。隠れ住むイタチ。せせらぎの音。そのまま朽ちてゆく倒木。苔の緑。空に続く大気。どこからか虫の声。足音に逃げる蛇。落ち葉の深い層。花。星。

豊穣の、世界。

雑音を捨てると
下界には要らないものが多すぎると気付く。

背負ったものは本当に私が背負うべきものなのだろうか?
普段の私は本当に私なのだろうか?
私がこの世界に生まれてきた意味は?

忘れようと努めているそういった疑問を、この場所に来ると、思い出す。
日常に生きる自分をあわれみ、悲しさに沈む。
でもそれは不必要な感情ではない。
豊穣の神の下で行う、みそぎのようなものだ。

深い雲間から日がのぞき、雲の影を追いやるように境内が明るくなってゆく。
ふいにカラスアゲハが胸元に止まった。
綺麗な色だ。
明かりの無い山の暗闇に見た、天の川のような羽を、ゆっくりと上下させている。
逃げないように息を止め、静かに見つめていたら

「わたしはここに居ます。まだしばらく、ここに居ますよ。」

届いた日の光と共に
そんな言葉が思い浮かんだ。



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