便利さが生み出した不便さ
我が家のキッチンには、「野菜チョッパー」なるものが存在する。
これは、ガタイの良い20代後半くらいのプロレスラーが赤いパンツを履いて野菜室のキュウリやトマトにチョップをしてくれる、といった大層なシステムではなく、
野菜のみじん切りが簡単にできるキッチンアイテムのことだ。
この野菜チョッパーは、もともと使っていたものがどこかへ行ってしまって、
引越しのタイミングで新しく買いなおしたもの。
行方不明の期間はおよそ数ヶ月ほどであったが、その間、みじん切りは
包丁で行っていた。野菜チョッパーと出会う前はずっとそうしてきたはずなのに、
すごく手間に感じるしなんだか上手くできない。
ハンバーグのために玉ねぎを出来るだけ細かくみじん切りしながら、
ふとこんなことを思った。
野菜チョッパーの存在を知るまでは、包丁でみじん切りをすることが当たり前だったので、さして面倒に感じることもなかったなあ。
それは野菜チョッパーに限ったことではない。
湯沸かしケトル、ゆで卵スライサー、電動のワインオープナー・・・
キッチン用品の括りで考えただけでも、当てはまる例が山ほどある。
世の中にある、いわゆる「便利グッズ」は、時間短縮や手順簡略などの機能を果たすと同時に、手にするまでは感じたことのない「不便さ」を生み出しているのかもしれない。
便利が故に新しい不便が生まれるなんてばかばかしくなり、家のありとあらゆる
「便利グッズ」を処分した私は、同時に「手間をかける大切さ」へスポットライトを当てて生きて行くことにした。
野菜チョッパーだけは、未だ戸棚の中にこっそりしまってあることは秘密だ。