第2章 はじまり 矢嶋 寧汰(月刊トレーニング・ジャーナル2024年6月号、連載 小説 The Colours of a Flame ──天野川高校ラグビー部の奮闘 第2回)
矢嶋(やじま)寧汰(ねいた)
連載目次
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第2章 はじまり
「必殺技を身につけたいんっス!」
メディカルチェックの順番が回って来たとき、太田(おおた)祐太(ゆうた)はそう言った。2年生。オープンサイド・フランカー。背番号は6番。均整の取れた筋肉質のいい身体をしている。身長175cm、体重86kg。 「俺、トレーニングマニアなんで!」と続けた。「『イナズマ・サンダー・ステップ』とか、『ダイナマイト・ボンバー・タックル』とか! なんかそんな感じの俺だけの必殺技を身につけたいんっス! 授(さず)けてください! 常盤さん!」なんだかいつでも微笑んでいるような顔なので本気度がわからない。
「厨二(ちゅうに)か」常盤(ときわ)凛(りん)は苦笑いしている。「ふざけてんの?」
「本気っスよ!」祐太は叫ぶ。
「声でかいねん。しかもお前、そのネーミングセンスな。ひどすぎやろ。言葉被(かぶ)っとるし!」
一緒にいたずんぐりと固太りした体型の阿(あん)武(の)達郎(たつろう)も突っ込んだ。2年生。フッカー。172cm、90kg。隣でマネージャーの蓑田(みのだ)千尋(ちひろ)が、彼のよく発達したフトモモにメジャーを当て周囲径を計っている。
「颯(はやて)にポスピタルパス放っといて、必殺技もないぞ」前の試合で、相手チームの平良(たいら)聖人(まさと)のタックルで真中(まなか)颯が仰向けに転がされた原因は祐太のパスだった。ホスピタルパスとは、受け取った選手が病院送りになるようなタックルを受けるタイミングの悪いパスの通称だ。
「そんなん死語やろ、死語!」祐太は懲りていない。そんなやりとりの横にはニコニコと黙って聞いている野村晴(はる)翔(と)がいる。自分のチェックはすでに終わっているが、最後の二人を待っている。175cm、94kg。タイトヘッドプロップ。3番だ。達郎をさらに横に大きくした体型。達郎が一重瞼の細長い目なのに比べて、晴翔は二重瞼の大きな目をしていて、ポリネシア系の顔貌を思い起こさせる。左の側頭部に歪んだ稲妻のような傷が入っていて、そこが禿げてしまっている。「ラグビーとは関係ないっス、これは」さっき彼はそう言っていた。
「別に必殺技メーカーちゃうやろ、トレーナーって」達郎はそう言うが、彼ら天野川高校ラグビー部員の中でアスレティックトレーナーについての認識度は低い。テーピングを巻いてくれる人くらいの感覚だ。
「粟谷先生、コーチをもう一人つけてくれた方がよかったんちゃうんか」「そやけど、雄(たける)がケガしたん世話してたとき、なんかチャッチャとしててカッコよかったぞ」様々な声があるようだ。
このメディカルチェックを通じて、肩や膝の関節を始め次々に身体の状態を確認してパソコンに入力していく様子を見て「医者みたいやな」と囁く部員もいる。実際「こっちの足首、ひどい捻挫したことあるんじゃない?」「膝が痛かった時期なかった?」といった具合に、前に配られたアンケートには書くほどでもないと思っていた状態を結構正確に見抜いてくる。
「明日のフィットネスチェックに霜田(しもだ)さん来てくれるから。テスト後の練習で基礎スキルも確認したいらしいよ。それでチームの方針が決まっていくから、太田くんの必殺技はその後だな」凛は祐太に答えた。明日が、部活指導員として新コーチに決まった元プロラグビー選手霜田亮一(りょういち)の指導初日となる。
「私に言わせたら、当たり前のプレーの質を上げることだと思うけどね。フランカーなら、どこにでも現れて、いつでも強烈なタックルぶちかませば、それが必殺技じゃん」
「いいパス放るとかな」達郎がかぶせる。
「いつでもどこでも…か。ほなエニタイム・エニウェア・タックルでいくか。イツドコタックルの方がわかりやすい?」
「俺はスルーかいっ。そやけどほんまセンスのかけらもないのう。脳(のう)筋(きん)太(た)が」名前が太で始まり太で終わる祐太をそう呼んで、達郎は笑った。
5名の3年生が引退して、1年生が8名、2年生が13名の総勢21名となった天野川高校ラグビー部。凛は全国大会大阪府予選が終わった次の週末を、文化の日の祝日を含めて3日間メディカルチェックとフィットネスチェックに当ててもらった。顧問の粟谷先生に教室を手配してもらい、最初の2日間はタイムスケジュールを組んで割り当てられた時間に各自登校してもらった。事前アンケートの結果をもとに、脳振盪の既往や摂取しているサプリメントの名前などについても詳細な質問を交え、各関節の不安定性、筋のタイトネス、気になる部分の筋力や整形外科的テストなどを手早くチェックしてきた。気になった選手はスクワットやランジの姿勢など簡単な動作確認も済ませている。今日は2日目。達郎でようやく終了だ。ひとり20分かかるとしたら、全員済ませるのに休みなしで7時間かかる計算になる。2日間で要した時間は、それよりは短く済みそうだ。これは千尋の協力のおかげだ。保健室から借りてきた身長計や体重体脂肪計、そしてメジャーを駆使して、凛の隣で形態測定を手伝ってくれた。胸囲や腹囲、腕や脚の太さなど筋周囲径の測定は凛が自分をモデルに事前指導したが、彼女は器用にこなしてくれた。
「雄(たける)のやつ、どうなんですか?」自分の順番が回ってきたとき、真っ先に達郎は尋ねた。先日の試合で左膝前(ぜん)十字(じゅうじ)靭帯(じんたい)(ACL)と内側(ないそく)側副(そくふく)靱帯(じんたい)(MCL)断裂と診断された真中(まなか)雄(たける)は冬休みに入ってすぐに手術をすることが決まった。2年生には本人から連絡が入っているようだが、詳細がうまく伝わっていないようだ。なにしろ「なんで俺が〜」「いや絶対戻るから!」「手術嫌や〜」「ラグビー戻れんのかな涙」「俺は無敵や!」時間を開けて次々に送られてくるメッセージは支離滅裂だった。しまいには、「こうなったら、凛ちゃんと仲よくなってやる!」と来た。達郎がスマホの画面を凛に見せると、「ちゃんづけとは、舐められたもんだな」鼻から息を吐き凛に一瞬殺気が宿った。が、すぐに心配する顔に変わる。「そりゃ不安定にもなる。それは責められない」
「そう、ですよね」形態測定が全て終わった千尋も隣に来て聞いている。
負傷したあの日、試合が終わって運ばれた津田東病院で、日曜日であるにもかかわらず雄は岡井ドクターの診察を受けることができた。即日のMRI検査も終え、兄の颯(はやて)と彼らの母親の到着を待って岡井先生は状況を丁寧に説明してくれた。神妙に聞いていた雄は、待合室に移ってしばらく黙って腰掛けていたが、手術が必要、どこかの腱を切り取ってくる、2週間ほど入院が必要、リハビリには8カ月から1年近くかかる、断片的なそんな言葉が頭をぐるぐると駆け巡って混乱していた。松葉杖で待合室に戻り腰掛け、大きなため息をついた。隣に颯が座った。母親は書類の記入のために受付で話を聞いている。
「常盤さん」雄は凛に声を掛けた。
「俺、手術なんか嫌っス」声が少し震えている。「治療でなんとかしてくださいよ! せっかくトレーナーとして来てくれたんやし!」大きなケガをした選手は、ショックを受け現実を認めたくない感情にもなる。しかも彼はまだ高校生だ。まずはその心の乱れを受けとめてやらねばならない。そしてその上で進むべき道も示してやらねばならない。
「そうだね。それができれば、いいんだけど」本当に。だが、トレーナーは魔法使いではない。「しばらくして落ち着いてから改めて話そうか」凛は雄の肩に手を置いてそう言った。雄はしばらく黙り込んだ後で口を開いた。
「いや、すみません。やっぱりちゃんと何が起きたのかは知りたいです。さっきのお医者さんの話、ちゃんと頭に入ってこなかったんで、もう一回教えてください」雄は、固定用のブレースが巻かれた膝をさすりながら視線を上げずに言った。
「今回、フトモモとスネの骨をつないで膝を安定させるためのふたつのバンド、靭帯が完全に切れた。でも半月板という膝の中にあるふたつのクッションは無事だった。これは幸い」
凛は雄の膝の内側と前面に人差し指で靭帯の走行を示し、それから両手の親指と人差し指でC型の輪っかをふたつ作って示しながら、努めて落ち着いた声でもう一度噛み砕いて話してやった。
「手術しないでやってる人が全くいないわけじゃない。でも、このふたつの靭帯を失った膝はグラグラになる。抜けそうな感覚、わかるでしょ。そんなふうに安定性を失った膝は、残念だけど治療だけでもリハビリだけでも元には戻らないの」関節の外にあるMCLはある程度修復されるが、関節の内部にあるACLは断端が再びつながることは期待できない。
「正しく機能しない膝で無理すれば、せっかく無事だった半月板に負担が大きくなって裂けてしまうこともある。その下にある骨の関節面を包んでいる軟骨まで傷むことも多い。そうなるとスポーツどころではない膝になる可能性が高いの」半月板は線維軟骨という素材でできている。関節を作る骨の表面は硝(しょう)子(し)軟骨という摩擦係数が極めて低くクッション性もある別の素材で覆われている。半月板もこの関節軟骨も充分な血流が確保されておらず、一度大きく損傷すると保存的に治る見込みは極めて低い。ほぼ不可能と言っていい。
「このケガの対応は手術がベストなの。先生の話だと冬休みに入ってすぐにできそうだって。今から一月(ひとつき)半(はん)くらい後。入院は10日から2週間くらいになる。でも、手術を受ける前も、ただ手をこまねいて待つだけじゃない。やるべきことがある。もう戦いは始まっているの。そしてね、これはひとりぼっちの戦いじゃない。私がいる。岡井先生もいる。一緒にできる限りのことはしよう。前より強くなろう。いろんな意味で鍛え直そう。そして華麗なる復活を遂げよう。あなたの高校ラグビーが終わったわけじゃない」ゆっくり噛み締めるような話しぶりを、雄は視線を落としたままじっと聞いていた。
「でも8カ月くらいかかる」雄が顔を上げ凛を見つめる。「長いっす」凛は目を逸さず頷いた。「いつ、というのは正直約束できないけど、夏合宿前後にはかなり厳しめのトレーニングができると思う」
「戦えや」じっと黙って話を聞いていた颯は、自分より一回り大きな弟の肩を力強く叩き頭をくしゃくしゃと撫でた。「俺もいる」
話を聞いていた達郎は大きなため息をついた。「あいつ、何が起こったか、うまく実感できてませんよね。俺らもそうですけど」
「何で自分なんや、とか思っちゃうよね。受け止めて前向くっていうのは、言葉で言うほど簡単じゃない」
「僕らにできることあったらなんでも言ってください、常盤さん。で、あいつ今どうしてるんですか?」
「うん。3日間はずっとアイシングと圧迫バンテージをしてもらって、その後(あと)うちの治療院に来てもらった。明日はこっちに顔出すって言ってたよ。週明けの授業にも出てくる」
雄は病院で診断を受けた3日後に凛の働く治療院に出向き、初めての鍼(はり)治療を経験していた。鍼(はり)というから縫い針や注射針程度の太いものを想像していたが、髪の毛とさほど変わらないくらいの極めて細くしなやかな鍼の刺入は全く痛みを感じなかった。大腿や下腿に打たれた鍼から足先の方にズシンと響く感覚は、不思議に心地よかった。仰向けのまま前面に打たれ、その後うつ伏せでも膝の周りを中心に施術された。鍼にクリップをつけて電気を流されると、気持ちよくなってそのまま寝てしまった。
「はい、起きて」凛に起こされたときには鍼は全て抜かれた後だった。それから関節可動域の改善と筋萎縮改善を目的としたトレーニングメニューを教えられた。復帰に向けた第一歩だ。
「地味トレだけど、手術後の回復期間を少しでも短くできるから」凛は大腿の前面、膝のすぐ内側上部の筋肉に力を入れるトレーニングを指導しながらそう言った。「ここができるだけ痩せないように、暇があったら力入れて刺激しておいて」そして易しく書かれた解剖学の本を渡した。
「膝周りの造(つく)りも勉強しときなさい」今回の手術では大腿の内側にある薄筋と背面内側の半腱様筋というふたつの筋肉の腱を一部切り取り、前十字靭帯の代わりになる移植片をつくり、膝の上下の骨である大腿骨と脛骨に穴をあけて埋め込む。雄が解剖学の本を開くと、関連する場所に付箋が貼ってあり、中にも赤ペンで注釈がつけられている。
「落ち込んでる俺に勉強までさせるんすかぁ」
「自分の身体に興味を持ち、学ぶのもリハビリの一環」本で顔を覆った雄に、凛はこともなげに言った。
「そういえば、君の競技歴に空手って書いてあったよね」
「はい、小学生の頃の話ですけど」
「何を隠そう、私も伝統空手の黒帯でございます。空手の稽古もリハビリに使えるなぁ。いろんな角度から攻めようね」
「常盤さんって一体何者(なにもん)っすか」雄は笑った。だがすぐに真顔に戻り「でも兄貴の前では、空手の話はなしで。お願いします」口の前に人差し指を立てた。
「もう、スタートしてるんですね」そこまで聞いて、達郎は少し安心したように見えた。
「しばらくかかっちゃうけど、いろいろレベルアップして帰ってくるから楽しみにしときなさい。でも真中兄貴に空手の話はなしってどういうことなのかなぁ」
「うーん、去年、颯と前の顧問とちょっとあったんすよ。本人がその気になったら、教えてくれるかも、です」何やら意味深だ。
「そっか。じゃ、本人からそのうち聞くか。さて、君のチェックも済ませちゃおう」
雄以外全員のメディカルチェックを通して、膝の靭帯損傷や肩の脱臼、また大きな骨折など、手術を必要とした既往歴が見当たらないのは幸いだった。だが足関節や肩関節また膝関節に若干の緩みが見られるなど、傷害と診断されてはいない問題は散見された。腰痛や首の痛みもそうで、達郎も首の痛みを訴えているひとりだ。
「ま、フロントローなんで。しゃあないっス」フロントローは、スクラム最前列を担う3人だ。両脇のプロップは背番号1番と3番。中央のフッカーは2番。相手のフロントローと首をがっちり組み合い、後ろから前から自分も含めて総勢16人の重みを受け止めている。FWの平均体重を仮に90kgとした場合、両チームの総重量で言うと1440kg、およそ1.5トンだ。全員の両脚で支えてもいるが、同時に足で地面を踏みしめて得ている地面反力も加わる。フロントローは想像を絶する重労働を担っているのだ。中でも最も力が集中するのが晴翔の3番だが、フッカーの達郎はそのスクラム全体をまとめる要(かなめ)となるばかりでなく、投入されたボールを足で自分サイドに掻き入れなければならない。この瞬間はスクラム姿勢を左脚一本で支えながら、右足を左前方に伸ばしてボールを掻き込むので、強さのみならず技術も必要になる。しかももうひとつの重要なセットプレーであるラインアウトでは、ボールを投げ入れる役割も担当している。多種の職能を必要とする難しいポジションなのだ。だからこそ彼は自分がフッカーであることを気に入っていた。
達郎の各関節のチェックが終わり、最後に本人も気にしている頸部をゆっくり確認することになった。
「そういえば、この前の試合、阿武くんのタックル、なかなかやばかったよね」凛は先日の試合でも強烈なタックルだと思ったら背番号2番という場面が多かったことをちゃんと見ていた。
「あざっす。自分、カラダ張るしかできへんので」達郎は照れた。
「さてと、最後に首周りじっくり見させてね。手に痺れはない? 左右で感じ方が違うとかないかな」凛は首周りを触り、可動域を確認した後、彼の両腕を同時に触りながら部位ごとの皮膚感覚の違いを確かめている。頸部の痛みは上肢への神経症状を伴うことがある。たとえば頸椎椎間板ヘルニアが起こっている場合などだ。神経症状とは皮膚感覚の異常や筋力低下などに現れる。
「変わんないっスね」達郎は答える。
「腕、こう上げてみて」曲げた肘を外側に上げて、彼に同じ動きを促す。上から押さえて左右の力の入り具合を確認する。「次はこうして」肘を曲げる格好で曲げたり伸ばしたり力を加える。手早く評価を進める凛に達郎は感心している。打鍵器で腱反射を確認したときには「常盤さんって医者みたいっスね」達郎もそう言った。
「あのね、ドクターと比べたら、トレーナーができることはごくごぉく限られてるの。メディカルサポートと言っても、診断できない、注射も打てない、薬も処方できない、もちろん手術もできない。最新医療機器を駆使して人の命を救うなんていうすごい役割じゃないの」凛は手を止めてそう言った。
「でもね、スポーツ現場に立っているときは、そうアスリートの目の前にいるときには、そこに自分の役割がある。この場では、アスリートの命を預かってるって本気で考えてるの。アスリートの命(いのち)って、生命(せいめい)という意味だけじゃない。賭けているものっていう意味でもあるじゃない」
達郎は細い目を丸くしている。
「大袈裟に聞こえるよね。でもこの場所ではドクター以上の仕事ができる能力(ちから)を身につけたいってずっと思っているの」自分に言い聞かせるように凛はそう言った。
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