陸上競技の不正との闘いの歴史から、“性”を考える 貞升 彩(月刊スポーツメディスン252号、連載 スポーツにおけるLGBTQ+、トランスジェンダーアスリートに関連した倫理的課題 第6回)
貞升 彩
整形外科医師・医学博士、スポーツ倫理・インテグリティ修士、日本スポーツ協会公認スポーツドクター、千葉大学大学院医学研究院整形外科学客員准教授
連載目次
https://note.com/asano_masashi/n/n9fe1bc399ce6
はじめに
私は2021年夏、東京オリンピック開催期間中、世界陸連の独立機関であるAthletics Integrity Unit(AIU)に夏期インターン生としてインテリジェンスチームに所属し勤務していた。それまでサッカー界での仕事は経験してきていたが、陸上競技の業務は初めてだった。任された業務はドーピング摘発に関する情報を収集することだったが、陸上競技に接することで、サッカーとは全く異なる競技の特殊性と、それ故のドーピングの多さに向き合うことになった。そして同じように、陸上競技における“性”の特殊性にも気づいた。
そこで、今月号では趣を変えて、陸上競技における“性”、つまり生物学的性(セックス)と性自認(ジェンダーアイデンティティ)を考えてみる。誰もが認めるであろう、陸上競技はスポーツの花形競技であり、オリンピックにおいても最も注目されるスポーツと言っても過言ではない。スポーツ哲学では、スポーツはフィジカルの優位性を競うゲームであり、そこにはルールが設けられると定義される。そして、このルールは多くの人に受け入れられるために普遍的でなければならない。陸上競技の特徴は、ルールが非常にシンプルであり、古代ギリシャ時代から行われてきたという長い歴史を有することである。そして近代オリンピックのモットーである「Higher, faster, stronger (より高く、より速く、より強く)」を体現する。そして、球技よりシンプルにフィジカルの優位性が競われる。
そのような特徴を持つ陸上界は、国際オリンピック委員会(IOC)よりむしろ切実に“性”をめぐる課題に直面してきた歴史がある。そこで、今回は陸上競技における“性”をめぐる課題とは何か、どのような取り組みを世界陸連(旧国際陸上競技連盟)が行ってきたかということを紹介する。
陸上における不正との闘い、ドーピング汚染
性の話の前に、陸上競技における不正との闘いを考えてみる。陸上競技はルールがシンプルであり、そして個人競技であること、競技を行うのに必要な道具も限られているため容易に競技を行うことができる。そのような汎用性の高さは競技の普及率を一般的に高くする。結果、陸上競技は長い歴史を持ち、そして世界中で広く行われてきた。
また、先述のように陸上競技は男性の身体的特徴が有利となりやすい「Higher, faster, stronger (より高く、より早く、より強く)」というフィジカルエクセレンスを競うスポーツである。これらの競技特性を有するがために、陸上競技は歴史的にもドーピングの蔓延に悩まされてきた。つまり、禁止物質に認定されるアナボリックステロイドのように筋力を増強させる効果のある物質を摂取すれば、それは競技成績に直結し本人の社会的地位向上や経済的利益の享受につながりやすい。これはチームスポーツのサッカーと比べればその差は歴然である。たとえば、サッカーである個人がドーピングを行い、仮に本人のフィジカルパフォーマンスが向上したとしてもチームスポーツであるが故に結果に直結させることは難しいし、必ずしも個人の能力向上が評価されるとも限らない。
一方で、国際陸上競技連盟(IAAF, 現世界陸連)は2016年に世界アンチドーピング機構(WADA)によって、IAAF内で汚職が横行していたと発表し、連盟の体制改善を求めた。具体的には、当時のラミーヌ・ディアック会長が汚職に関与しており、ロシアのドーピング事例のもみ消しなども行った疑いがあり、フランスで刑事事件として責任を追及された。業務改善命令が出されたIAAFは新会長セバスチャン・コー氏の下、新しい体制を整備していくことになった。
そして、2017年に世界陸連の独立機関としてAthletics Integrity Unit(AIU)が設立された。クリーンな陸上競技の維持のため、ドーピング、とくにアフリカの人々が標的となる人身売買、陸上競技に使用される道具の正確性確保と不正防止などの事例を世界陸連とは独立して扱い、それに対して調査や教育、違反事例に対する罰則を課すようになった。私は2021年、AIUの部署の1つであるインテリジェンスチームに配属された。私に与えられた業務は主にロシアとインドのドーピングに関することだったが、一緒に雇用されたウガンダの学生は人身売買に関する情勢を調査し、また別の英国の学生はハッキング防止のためのシステムづくりを担当していた。
昨今、ほかの競技団体、たとえば国際テニス連盟、バイアスロン連盟、水泳連盟なども独立してインテグリティユニットや機関を持つようになっている。ただここには競技の特性が関連していて、何に対してメインで取り組むかは競技団体によって異なる。たとえば、テニス界においてはもっとも蔓延している不正はドーピングではなくmatch fixingであり、そのためテニス連盟のインテグリティユニットはmatch fixing防止と不正の摘発をメインの業務として行っている。そこは陸上競技界ではドーピングの摘発がメインであることと大きな違いがある。つまり、テニスでは試合の不正操作によりアスリート自身、周囲のスタッフ、テニスの試合には直接関わらない人や組織が金銭的利益を享受することが不正の中身であるが、陸上競技ではドーピングを行うことで直接的に競技成績の向上をもたらし社会的地位向上や経済的利益の恩恵を受けることが不正の中身となる。陸上競技の、フィジカルパフォーマンスを競う競技であるという、スポーツの原点とも言えるようなシンプルでよいとも言えるその特性が、不正をする側にとっては求める結果が得られやすいという弱点にもなってしまう。そこが陸上競技界の悩みの種であり続けてきた。
陸上競技における“性”
ドーピングが陸上競技における長年の悩みの種であり続けたように、“性”に関する課題ももう1つの大きな倫理的ジレンマであった。男性の身体的特徴が有利となる個人競技であるがため、近代オリンピックの歴史の中で、陸上競技における“性”に関する課題は時代ごとにその内容を変えつつも常に存在してきた。
第二次世界大戦中のナチスドイツ、そして東西冷戦時代の旧ソ連では身体的性別が男性のアスリートが女性に扮して女子カテゴリーに参加しているのではないかという疑惑が起きた。性別詐称を防ぐため、必須の性別確認検査が女性アスリートに対して導入されるが、これは倫理的、人道的に大きな問題があったと言わざるを得ない。その後、性別確認検査は必須ではなくなったが、性別に疑義にある選手は世界陸連医学委員会など専門家の間で協議され、必要な場合は性別確認検査が個別で行われてきた。性別に疑いがあると判断される選手には性分化疾患(DSD)を抱えている場合があることが、これまでに明らかになっている。
トランスジェンダー課題と似て非なる性分化疾患(DSD)課題
さてDSD課題はよくトランスジェンダー課題と一緒に議論されることが多いが、これらの課題は似ているようで本質的に異なる課題である。ここでDSDとは何か、そして陸上競技において何が倫理的ジレンマとされているのか解説したいと思う。
性分化疾患とは、性染色体に基づき精巣や卵巣などが男性と女性にそれぞれ特有な性器が発達する性分化の過程で何らかの支障をきたし、性染色体、性腺、性器が非典型的となる先天性疾患の総称である(日本小児内分泌学会, 2023)。染色体異常を伴うDSD、46XY DSD、46XX DSDに分類されるが、ここには70以上の疾患が含まれるとされる(中塚 幹矢, 2023)。
症状としては外性器が他の多くの人が有する男性の外性器や、女性の外性器と異なる場合に本疾患が疑われ、また女性においては乳房の未発達や初潮が訪れない、男性においては精巣の未発達や声変わりがしないことを契機に発覚することもある。非典型的な外性器を有する新生児の割合は2000人から4000人に一人とされる(中塚 幹矢, 2023)。
このうち、スポーツにおいては女子カテゴリーに参加する46XY DSDを抱える女性アスリートが議論になってきた。つまりDSDを抱える新生児のうち、生下時には外性器の形状から女児と判断され、女性として育ち、そのまま女性アスリートとして競技参加をするケースはあるだろう。では、スポーツにおいてどうして注目されてきたのだろうか。とくに陸上競技のトラック種目において46XY DSD選手は、オリンピックや各大陸における国際大会などの主要な舞台で、他の女性アスリートを圧倒してすばらしい記録を樹立し、かつ高身長である、筋肉が一般的な女性アスリートより発達しているように見えるという男性の身体的特徴に近い外見的特徴を有している場合に性別に疑いの目が向けられてきた。その原因としてはそのようなDSDアスリートでは血中テストステロン値が一般男性と同等かもしくはそれ以上と高値であるため、身体的特徴が女性アスリートより男性の身体的特徴に近いと考えられている(貞升彩 & 山口智志, 2020)。また一般人口におけるDSDの人口と比べるとアスリート間における人口は140倍とされる(Bermon et al., 2014)。
陸上における現在の性別確認検査とその手順
女性アスリートに対して必須であった性別確認検査が廃止された後は、選手の性別に疑問が生じた場合、医学委員会をはじめとした連盟のスタッフや専門家の判断により必要と判断された場合は性別確認プロセスが個別に行われてきた。性別に関する調査や結果報告はプライバシー保護の観点から公にされることはないが、その後の選手の参加種目の制限、たとえば陸上においては出場可能な種目に制限が課されるなどの対応から概ね選手がどのような診断や判断をなされたのかは推測できてしまうのが実情だった。セメンヤ選手の事例がその例である。
2023年に世界陸連はDSDアスリートに関する新たなレギュレーションを発表した。これまでは400メートルから1マイルまでの種目でのみ出場が制限されていたが、今後はすべての種目で女子カテゴリー参加には規制が課されることになり、血中テストステロン値を2.5nmol/L以下にすることが必要となった。
DSDに関する検査が必要と判断された場合のプロセスはホームページ上に公開されている(World Athletics, 2023)。Level 1〜3までのステップに分かれており、最初のステップは該当する選手の臨床検査データや既往歴を確認すること、その上で血中テストステロン値が規定値以上か以下かを確認することである。高アンドロゲン血しょうが認められる場合はその原因となる可能性の有無、アンドロゲン不応症であるかに関する情報を収集する。競技者の担当医師が信頼するにふさわしい人である場合はその者に検査を一任し、不必要な検査は繰り返さない。しかし、検査が不十分であると判断された場合は世界陸連が婦人科、内分泌、小児科医のうち当領域に専門的知識と経験を有する医師に介入を依頼する。検査の正確性のため、採取された血液や尿は世界陸連指定の検査機関で検査をされ、ホルモンや尿中の代謝物を調べる。Level 2 では問診や血液検査のデータからDSDのうちどのような疾患(5α-還元酵素2型欠損症、部分的アンドロゲン不応症、17β-ヒドロキシステロイドデヒドロゲナーゼ3型(17β-HSD3)欠損症、卵巣性DSD、その他)に該当するのか、規定値を上回る血中テストステロン値を有しているのか、そのアスリートはテストステロンが作用を身体に及ぼすだけの十分なアンドロゲン感受性を有しているか評価する。それらの検査のみでアスリートがDSD規定に違反するのか判断するのに情報が不十分な場合、Level 3 に進む。ここでは、身体検査、医科学的検査(血液、尿、遺伝子)、画像検査、精神学的検査を含むとされる。Level 1〜2に比べると侵襲性も大きくなり、またよりプライバシーに踏み込んだプロセスとなっている。
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