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ギークス! 僕らの章(7) 北関東の田舎なんて、ということ

 北関東の平地は、意外と寒いものである。
 朝早いと、吐いた息が白くなる。
「……さん。ひーさん」
「お、え? はい」
 僕は、住職さんがきっかけでハマっていた作務衣をまとっていた。
 床の雑巾がけをしていたのに、その雑巾をまともに絞らずにいたので、辺りをビチャビチャにしていた。
 いやどうも。
「ひーさん。ボーッと生きてはいけませんよ」
 流行りのギャグか? スズキさん……妙にニタニタしているが。
「あぁ、確かに……ボーッとしてる。紅子さんの仕掛けた逆玉ネタに、一瞬心が揺れちゃった自分が憎い……」
 紅子さん、というのは割と迷惑な僕の親戚のことである。
 詳しく突っ込むと長いので、とりあえずは割愛しとくが。
「あぁ、いいのです。実際にそれで結婚したとか、お子さんができちゃったわけではないのですから」
 いやいやいや!
 僕は何度も首を横に振った。
「で、でき……できちゃっ……え!? んなこたぁやんねぇわ!」
「まぁ、うちのあゆちゃんは可愛いですけどねぇ〜。いいのですよ〜。あゆちゃん。よちよち」
「スズキさん……あなたねぇ……」
 この日の彼は、胸元に小さい赤ちゃんを抱いていた。
 スズキと(刺し身の)ツマの子供があゆとか、名前だけ聞くとすげぇわけが分からない。
「はい、よ〜ぉしよしよし」
 おいそれどこの動物王国だ。
「ツマさん今日はお疲れなのです。パパがお世話しますからね〜」
 このおじさん、マジで馬鹿にしか見えねぇ……が、めっちゃ幸せそうなのが悔しい。
「ひーさん。別にね、独身男性だからってそんな、過剰に卑下しなくていいでしょう」
「そうけ?」
「多分ね、何年かしたらひーさんのこと、『おいたん』とか呼んでくれますよ? あゆちゃん」
 だからそれ! どこの懐かしい海外ドラマだよ!
「うふふ。でも……そうですか。心揺れましたか、紅子さんとのバトルで」
「うん……あぁそっか、人って……用意されたレールに乗っかって、よそから褒められてカネ貰った方が楽なんだなぁって思った」
「あれまぁ」
 雑巾をかたく絞って、ビチャビチャの床を拭いて、また絞って、を何度か繰り返した。
「確かに楽です。褒められます。しかし、今のひーさんは別のレールも違和感があるなぁと思っていらっしゃるのでしょう?」
 別のレールとはどれを指すのか……場合によっては、腹の底に何かアレなものが溜まりかねないが。
「別の、ねぇ。それ何ですか? 俺が上京するとか?」
 分かんないや、と思った。
「そういう道を選ばないで、ベタに高校入り直すっていうのも……結局、世間体を気にしてそうなったってことにはなりませんか?」
 スズキさんは微笑んだまま答えた。
「いえ〜、中卒だとこの先が少々危ういというのは事実ですし。私だっていい大人ですから分かりますよ」
 僕はため息をついた。
 中卒なのだ。
 しかもその原因は、半分は自分で作ってしまったようなものだ。
「自分の人生、好きなように生きてやるんだって頭の中で思ってるのに……行動とは一致しません。両親と何年、まともに口利いていないか考えると」
「あぁ、それはお辛いですね」
「最後に真顔で、『好きにしなさい』って言ってた。涙も出ないくらいショックだった。僕はもういらないのかと思って」
 胸が痛んで、喉がすぼまった。
「あれ、息子への諦めですか? どうせゲイだし、学歴もなくて貧乏だし、そんな人間が無理無理女性と結婚したって、うちは幸せにはなれないだろって話ですか?」
 スズキさんはのほほんとしていたが、その口で実に重みのある言葉を言った。
「……人は、結局何かは諦めなければなりません」
「諦め……」
 珍しくネガティブな要素のある言葉だった。
「フィクションが言うような自由などはないのです。幼い頃は親の保護なしでは生きられず、大人は大人で、周囲の目にさらされて。おまけに、優しい嘘を覚えなければ幼いとみなされるのです」
 スズキさんの家庭の事情などはほぼ知らない。
 にしても、その発言が生々しさを帯びているのだから、彼にも何かはあったのだろう。
「諦めなきゃならないことは、いくつもあります。でもその上で、自らが望んだ道を納得できるのならば、それが幸せなのです」
 あゆちゃんを抱っこした彼は、何年か前よりももっと堂々としていた。
「私は、今のひーさんのこと好きですよ」
 スズキさんの優しさは、本当は様々な責任を背負った上での優しさなのだと分かった。
「あぁ……スズキさんが父親ならいいのに」
 でも、僕はもう大人だし、スズキさんは本物の父親じゃない。
 法律上は赤の他人。
 胸の中に満ちていくこれは、諦めなのだ。
「……ところでひーさん」
「はい?」
「そ……それは既婚者への愛の告白……なのですか?」
「へ? あ……やべぇ……そういう意味じゃないっス!」
 同性婚の代わりに養子縁組してくださいという意味で取ったのか、スズキさんは顔を赤くしてしどろもどろしていた。

 この辺りでは若いうちから結婚して、子供を育てている男女が多い……気がする。
 どうしてかというと、その家族の絆だの、人との縁だので貧しさを埋めようとするから。
 おまけに、親戚も職場の人間も古い考えをしているからというのもある。
 仕事をちゃんとして、結婚して、子供を産んで育ててというのは普通じゃないかとしつこく言われる。
 職場のおばちゃんも、僕の学歴は聞かないけど、彼女いるのとか結婚しないのとか、そういうのはしつこい。
 それから、お嫁さんを養うには正社員にならなきゃ駄目よ、などとおせっかいを押し付けてくる。
 まぁそれはマシなのだ、おばちゃんらはなんてったって赤の他人だから。
 ところが……そのおせっかいから、なかなか逃れられない人というのはいる。

 この前、とうとう大変な人がニートハウスに押しかけてきた。
 スズキさんはこの件でわざわざ、妻のツマさんの家から助けに来てくれたが……彼でも手強い人なのだ。
 首筋にうっすら冷や汗をかいていた。
 ニワトリさんは状況を知らないので、張り付いた笑みを浮かべてオロオロしていた。
 その時たまたま息抜きしに来ていた芽衣子さん(琴子さんの元メイドのおじさん)は、こめかみに手をやって、彼女の名を呼んだ。
「紅子さん……」
 夏の終わり、田んぼと山ぐらいしかないこの地に、ヤバイ魔女が降り立った!
「ご結婚はまだかしら? 聖さん」
 短い人生の中で、色々ヤバイ人に遭遇しすぎじゃね? とは思ったが……きらびやかなオーラをまとった彼女は魔女だ。
 ちょっと時代の先を行っていそうな服装と、派手な化粧。
 しかしながら脳内は、昭和の古臭くて、しかも妙に浮かれていてバブリーそのものだ。
「せっかくだから一緒になればいいのよ。どうせ跡はつばきが継ぐんだから」
 出た、脅しの決まり文句!
 話が長くなるのもお決まりなので、雑多で生活感溢れる居間に紅子さんを通した。
「東京でお金を稼ぐのならまだしも、こんなチンケな田舎よ? 人の縁がなければまともに生きてゆけないの」
 そうです、だからここにお世話になってるんス、と僕は返す。
「そうね、その辺りはやっぱり、タキコは頭がいいのね」
「いや、スズキさんを紹介してくれたの父なんスけど」
 怖い、勝手に僕の母の名前を出して。
 しょうがないんだけどね……なんせ紅子さんは顔が、声が、その瀧子(たきこ)と全く同じなのだから!
「でも、ここだって永遠にあり続けるわけじゃないでしょう? そうでしょう?」
「うぅ……」
「だったら、結婚は早いに越したことはないわ。本当にあなたたちは仲が良さそうだもの。ことちゃん、前の彼とは別れちゃったみたいだしねぇ」
「うっす」
「だったらすぐにでも姫宮の妻にしてちょうだい、うちのことちゃんを」
 紅子さんは気が強そうな見た目をしているが、内心で焦っているというのは分かっていた。
 自分の姉が、正社員になって、結婚して出産して、子供を自立させた、ということに対して。
 彼女自身は就職したけど、派遣社員だった期間が長かった上、結婚したけど子供がとうとうできなくて、結局熟年離婚して、みっちり働くしかなくなった。
 だから自分が、中村家で一番不幸だと思っているらしい。
 でも、
「あなたとことちゃんが仲良しでいてくれて、あたしはとっても幸せなの」
 この言葉もまた、本当らしい。
 多分僕と琴子さんは、自分より不幸な親戚なのだ……と認識したのだろう。
 おかげで、歪んだ親近感を持たれてしまった。
 ここは……もしかして、素直に毒を吐くべきなのか?
 だって、紅子さんの文言は前の正月にも聞かされた。
 しつこいのを散々濁して逃げ回ったが、今回もまた言及されてしまった。
 彼女は、僕が同性愛者なのを知らないが……それ以前にまず経済状況が相当まずいのは知ってるんじゃないのか?
「厳しいこと言って申し訳ないんですけど、それ、自分の夢を押し付けてるんですか?」
 紅子さんは眉をひそめた。
「今日ははっきり言いますから。僕は彼女とは結婚しません」
 その場の空気が、ピンと張り詰めていた。
「僕は確かに琴子さんが好きです。彼女との関係も良好です。でも結婚するつもりはありません」
「え、ひーさん……それは、本当に紅子さんにお伝えしていいのですか?」
「いいのです!」
 多分、今の僕の威圧感はすごいのだろう。
 スズキさんは一瞬ひるんだ。
「僕は貧しいから、人を養うだけの余裕がないんです。スズキさんやニワトリさんから古着をもらうくらいには」
「じゃあ、お金があったらどうなるの?」
 紅子さんは即座に言い返してきた。
「いいのよ。どうせあたしは独り身で、今の稼ぎじゃお金を余らすぐらいなの」
 まぁそうだろうね、とはさすがに言い返さなかった。
「聖さんは本当の息子みたいなものだから、お金は貸さない。あげるの。その援助くらい喜んでやるのよ」
「そんな風に言われたって、その……」
 さすが金持ちの家の娘だ、そんな手でサラッと追い込むとは。
 はっきり言ってその条件は美味しい。
 というか、甥っ子を息子だとか言うのなら、もっと最初から資金援助が欲しかった。
 今までどんな苦労を強いられてきたか。
「紅子さん」
 琴子さんは苦い顔をして、ぴしゃりと言い放った。
「それ以上、聖さんを困らせないで」
「何なのその口」
 紅子さんは食ってかかった。
「慎みなさいよ。そんな風だからあなたは実の親に嫌われるの」
 だったらそれでもいい、と琴子さんは言った。
「頭悪いクセに、とか言うんでしょ。でも、悪いなりに考えてるよ」
「そうよ……仲良くなったのは、そっちの考えたことよ。だったら選べばいいの。本家を抜けて人の妻になることも」
「紅子さんさ、違うでしょ。そこは」
 と琴子さんは言った。
「聖さんは、あたしは好きだけどお嫁さんにしたくないって言ってるでしょ。あたしだってそうだもの。何でもかんでも結婚って言わないで」
 紅子さんは言葉に詰まった。
「産んで欲しいんでしょ、自分の赤ちゃん。あたしと聖さん、そんな、人に言われて産むとかないから」
「ことちゃん」
「あたしは紅子さんじゃないの」
 紅子さんは苦虫を噛み潰したみたいな顔で言った。
「何で、そんなあたしが、まるで……ワガママなババアみたいな言われ方しなきゃならないわけ?」
「だってそうじゃない。ワガママじゃない。幸せになってっていうの、自分のためだけじゃない」
「何よ」
 何よ……と、紅子さんは不服そうに、ブツブツと繰り返した。
「あなたが運転免許取るまで、車で送り迎えしてたのは誰だと思ってるの? 教習所の費用、誰が負担したと思ってるの?」
 彼女はテーブルを勢いよく叩いた。
「大きいサイズ洋服を探して、送ってやってるのは誰? 栄養バランスが偏らないようにって、サプリも送ってやってるのは誰? あたしじゃない!」
 威圧感のある声で彼女は怒鳴った。
「何でもやってあげてるの!」
 とてつもなくえげつない発言だった。
「家族と離れて、施設でもないようなとこで暮らすなんて無理なのに。支援してやってんじゃない。それで誰かと結ばれて幸せになってくれたらって思ってるんじゃないの!」
「頼んでもいないことを、『やってあげてる』とか言わないで」
 僕は、紅子さんのような態度で人と仕事をしなくて良かったと思った。
 「福祉の人間は、独りよがりなお情けではいけない。本人の心を無視してまで金銭をもらう資格はない」と、先輩から厳しく言われたことがあったから。
 というか、こういうのはお金をもらわない状態だからこそ無理だ。
「紅子さん」
 僕は内心恐怖に震えながらも言った。
「じゃあカネくださいよ。カネだけ。琴子さんじゃなくて俺にです」
「それが望みなの?」
「だってさっきあげるって言ったでしょう」
「……分かったわよ、考えるわよ」
「紅子さんが無理なら、本家に掛け合ってくれませんか? 琴子さんの介助する仕事の、給料をもっと上げてくれないかと」
「そうね、考えとくから」
 紅子さんはスズキさんの方を向き、深々と頭を下げた。
「あぁ、スズキさん。大人げない場面を見せてしまい申し訳有りません」
「い、いえ……」
「本当は怒るつもりなどなかったのです。ただ私は、彼女らの将来がとても心配だったのです」
「ええ、ええ。いいのです」
 スズキさんがいつも通りののほほんとした口調で言った。
 が、その張り付いた笑みを浮かべた様子は明らかにいつもと違っていた。
「分かりました。お帰りください。今すぐに」
 その気持ちが伝わったのだろうか、紅子さんは渋々帰った。

「た、助かった……」
 意外と長いバトルだった。
 資金援助の件は結局うやむやになってしまったのは悔しかった。
「あれでいいの? まぁあれ、うそじゃないけど」
 琴子さんは足を崩し、
「つかれた……!」
 と言った。
「本当ヤバかったっスね」
 スズキさんはコクコクとうなずいた。
 いつの間にか彼は冷や汗を額ににじませていた。
「でもいいよ、あたしは。あたしとひじりさんは、こいびとじゃなくていいんだもの」
「えっ?」
「だって、そうでしょ?」
 立ち上がろうとして、足が痺れててもつれる琴子さんを、僕は支えた。
「うん。ありがとう、琴子さん」
 いや、まだ十分ヤバイ……
 僕の電話番号を知っている紅子さんが、執拗にショートメールを送ってくるのだ。
 あなたのような、気の狂った両親から生まれた子にお金なんかあげるわけないでしょ?
 冗談も通じないのね、本当馬鹿ね。
 琴子と結婚しないって何? せっかく変な子供同士で仲良くなったと思ったのに……
 なんていう文言ではないのだ。
 むしろ彼女は優しさに満ちていた。
『お金で困っているならうちに帰りなさい。変な人に囲まれて、気を遣うよりいいでしょう』
『琴子と結婚しないっていうの、はっきり分かって良かったわ。今度、いいお嫁さんができたら紹介しなさいね』
『実はうっすら思っていたことがあったのだけど、どうしてあの場であんなにムキになっていたの? おばちゃんに何か隠してるの?』
『まさかゲイなんかじゃあるまいし。そんなんじゃないわよね? 結婚がどうとか、もしかして他から言われているのかしら?』
『そうなると勘違いされるわよね。違うのに。おばちゃんもかわいそうな真似をしたわ。あなたの好きなように生きなさい』
『でも、結婚は幸せなことよ? 考えておいてね』
『ところでさっき、お金は余っているなんて言ったけど、あれは冗談だったわ。ごめんなさい。本当はおばちゃんも余裕はないの』
『でもあなたは男の子だし、大丈夫よね?』
『大丈夫よ、今からでも頑張れば高校は行けるのだし、卒業後も仕事も選ばなければ大丈夫。すぐに正社員になれるわ』
『いいお嫁さんが見つかるよう、応援するわね』
 その執着はとても恐ろしかった。
 いつまでも返信をよこさない僕にキレたのか、彼女はとうとう電話をかけてきた。
『聖さん』
「紅子さん、あの」
『どうかしたの? 何か引っかかってるの?』
「どうしてそんなにこだわるわけ?」
『あのねぇ、これは親の望みのようなものよ』
「お待ちください。あの……スズキですが」
 オロオロする僕が見ていられないのか、スズキさんが代わりに応対した。
「お帰りくださいと言ったでしょう」
『え? ちょっと……あなた』
「あなたの言動は少々配慮に欠けておりませんか? よくお考えください」
『そんなね……申し訳ないけど、それでもあなたは赤の他人じゃない。どうしてそんな口を利けるの?』
「このシェアハウスの、赤の他人の代表だからこそ言っているのです。どうかお帰りください」
 そこでプツンと電話は切れた。
 ショートメールの嵐も止まった。
 スズキさんは、深いため息をついた。
「あぁ……なるほど……家族になれないとはこういう感じなのですね……」
 スズキさんは、もしかして僕らの……とりわけ僕のことを知っているのだろうか。
 どうしても言えなかったことすらも。
 自分の顔がこわばった。
「分かっていること、ご本人が言いづらいことを、わざわざ口には出しません。いいのです、それで」
「でも僕……このまま人に振り回されるのは嫌です。それを、いいよで流されるのは心外です」
 そうですか、とスズキさん。
「ひーさん。通信制高校でしたら、働きながらでも行かれますよね?」
「はい」
「それは、せっかくなので通った方がいいとお思いですね?」
 僕はうなずいた。
「それは、将来男性と同居する際に経済的に困窮しないため、という認識でよろしいですね?」
「それは……そうです」
「そうですか。では、ツマさんの知り合いに市役所の職員さんがおりましてね。まぁ、私がたまたま相談しやすい相手が彼だというだけなので、相性のいい方なら誰でもいいでしょうが」
 うんうん、いいのですよ、とスズキさんはうなずいた。
「私は色々な知り合いがおりますし、これからも何か助けられることがありますよ」
 ありがとうございますと、僕は深々と頭を下げた。
 やっぱり、スズキさんが父親ならいいのになぁ。