【いつおか】ひきこもることを選ぶしかなかった寂しがり屋に、帰る場所はあるだろうか【ソーシャルグッド】
こんにちは!
「いつおか」こと「いつでもおかえり」のクラウドファンディングが始まったそうです。
この知らせを受け、ライブ配信が始まる前にこんなこともしてました。
それで夜な夜なこんなツイートをしていたのです。
だから実は、祭incさんの事業はちょっとハラハラしながら見てるって感じです。
現状を手放しで喜んでいいのか、応援しても大丈夫だろうか、みたいな疑念を持つのはそういいことではないんでしょうが。
でも過去が、経験してきた事実がそうさせてしまう。
僕は今まで、誰かを救いたいとか、助け合いしようとか、居場所を作ろうという人たちの理想をいくつも聞きました。
もちろん自分自身にも、そういう理想はあります。
しかしながらその多くは現実のものにならなかったり、あるいは早期に壊れてしまったりします。
たとえば「発達障害者向けの就労支援をしたい」と言って事業所を立ち上げたけど、わずか1年あまりで潰れたとか……自分の経験した現実の多くはそういうものでした。
お金と、協力してくれる人が足りなくて潰れる。
本来の目的を忘れてお金稼ぎのことばかり優先させる。
メンバー同士、あるいは利用者と、助け合うどころか足の引っ張り合いになる。
譲れない正義がぶつかり合うことで、結局その居場所は荒れてしまう。
「傷の舐め合い」から先へ進まない。
慣習へのこだわりが著しい。
僕の望みはそうして、いつも「望み」のままで終わる。
それは自分がワガママなせいじゃないかと、最近リアルでまた苦しい思いをしています。
いや、だってこういう系統の記事書くレベルだもの。
書いてから反省……できないというか反省しようがない、とまでたまに思っちゃうのを慌てて直す、みたいな。
で、また「しんどい」系記事を書かないとやっていられなくなってきたのです。
僕があまりに夢を見すぎているのか。
社会に馴染めないでいるのに現実逃避してるだけじゃないか、とか。
本当は自分から、安心できる居場所を探したり作ったりしなきゃいけないのに、その努力を怠っているからいけないんだとか。
他にも色々なことを考えては疲れて、今までなかなかそれらしい記事を書けずにいました。
ワガママで正しくない人間が「苦しい」「助けて」なんて言ったら、それこそワガママじゃないかと。
書きたいけど、そこまでの気力が起こらなかった。
意外と、自分の中では結構参ってるんだと思います。
下手すれば「僕は生きる価値がないんだから」と考えるくらいです。
そのせいもあって、命の一部をしみこさんたちに預けるのはまだ怖いです、本当は。
でも、そんな本音と「ただ、誰かにそばにいて欲しい。寂しいから」をまぜこぜにして書き連ねてもいいものか。
とりあえず書いてはみますが、迷いはあります。
その、自分の震える手であっても、扉を開けてみたいと思っていいのでしょうか。