
ギークス! 僕らの章(6) 続・愛にラベルを貼ること
「『あたしはアイドルの氷上ちゃんが好きだった。よく知ってた方の、あまり作り込んでない高い声だもの』。これ、言われた方は死にたくなったっていうの……あの時は分からなかった」
でもあたし、今の氷上ちゃんの声で考えを改めた。
あたしはあなたが好きなの。
ユリナさんはこういうことを言っていたらしいのだ。
「甘かったんだ。ユリナさんはちょっと失礼とはいえ、あの言葉を言えるってことはよっぽど親しいのかって」
どんな姿でも、どんな声でも、どんな名義でも、あなたの散らばった破片を必死に拾っていたかったの。
そうして拾い集めて、たくさんの人に知らしめたかったの。
この子はきらめいてるって。
今でも……セーラー服じゃなくっても、とっても綺麗で可愛い子よ。
大好き。
そう言ってユリナさんは、彼を優しく抱きしめたそうだ。
「『俺のお姉さまでいてくれて、ありがとう』。氷上だってね、そう言うから……良い雰囲気にもなるじゃん」
客席の端っこで身バレしないようにしていたはずの夏希さんは、その場の感情に突き動かされて、結局叫んでいたという。
お願いだから幸せになって、と。
『君の今の幸せが、きらめきが壊されないように! 誰かに取られないように、僕も頑張るから!』
しんと静まり返ったホールに、夏希さんの叫びだけが響いたという。
女性の装いをして、女性のような声で喋りながらも一人称を「僕」にする夏希さんが、である。
女性としかみなされず、他人からちゃん付けで呼ばれた……選択肢を奪われた彼の前で。
その様を想像した僕は、胸がドキドキするその裏の、腹の底から湧いてくる戸惑いが何か分かった気がした。
本当は、別に夏希さんが彼か彼女かとか……そういう話じゃなかったのだ。
「ユリナさんから何年も、容姿や言動についていじめを受けていたのを知らないで、か……でも夏希さんに非はないですよ」
「氷上を守るって約束してた。その約束を破ったようなものじゃないか」
性暴力を受け、自らのアイデンティティーを壊されたた人間が、そうそうすぐに精神を安定させられるわけがない。
確かに、冷静に考えればそりゃそうだ。
そうだが……そんなの、言い出したらキリがない。
「けど、僕の怒りはユリナさんに向けるべきじゃなかったっていうのは後になって分かった」
ドラマのような、そんな簡単な話ではなかったという。
学生時代に氷上さんをいじめていたユリナさんですら、氷上さんを憎む集団に利用されていたのでは、とのことだった。
「でも、どこまで本当か分からない。分かるのは……そんな、人の性別のことを……生き死にのことを、僕らが勝手に口出ししちゃ駄目ってことくらい」
あぁ、また重い話をして飯をまずくしてしまった、と夏希さんは言った。
幸いにもご飯がまずいなんてことは思わなかったが、僕はそれでも複雑な心境にはなった。
「LGBT特集の仕事、断ったのも……本当は正しいのかどうか分からない。でも、他人に自分のことを勝手に決めつけられたら怖いから……」
自分事として考えると、何とも言えない。
僕は背は低いが、女性だと間違われたりすることはまずないからだ。
琴子さんとは仲が良いが、そんなズケズケと「彼女ですか?」とも聞かれないものである。
「決めつけられたらさ、言われるんだよ? 『その男らしくない声は何なんだ』、『オペはまだなのか』、『そんなんだから襲われるんだろ』って」
「ねぇ待ってよ」
やっぱり、僕は何も助けにはなれない。
こんな胸の痛みなんて、最初から分かっていたのだが。
割り切らなきゃ、福祉の仕事なんかやってられないのだが。
今は……間違いなくプライベートだ。
「待ってよ夏希さん。あなた、そこまで色々なことを思ってるんでしょう?」
夏希さんは、戸惑いを見せながらもうなずいた。
「自分のことだけで辛いはずのあなたが、どうしてわざわざ氷上さんを守ろうなんて思ったの?」
「え……?」
夏希さんは答えに窮した。
「あ、れ……? どうして……だっけ……」
そういうものでしょと僕は厳しい口調で、でも淡々と返した。
「あなた、そういうとこあるでしょうよ」
「え? 何……」
「カミングアウトしろとは言わない。悲劇ぶってるとも言いたいわけじゃない。でも正しさや優しさで、自分のことを覆い隠そうとしないでください」
夏希さんは目を見開いた。
「望んだ性別で生きて幸せになりたいって、その願いは本当は、夏希さんのものじゃないの?」
「……僕の、もの……なの……?」
「何で『氷上さんのお姉さま』のポジションにすがるの? 何で俺の前で男装するの? 人のためなの? 違うでしょ?」
「……聖……」
「今のそういうあなたと恋愛で結ばれるのって、正直しんどい」
僕が好きな夏希さんに、されたら一番嫌なことはこれだということがはっきりした。
それは、自らの望みをわざわざ、正義と優しさと自己犠牲でくるんでしまう点である。
それはあまりにも異様で、見ていて苦しい自己否定なのだ。
気まずい中、それぞれがご飯代を支払って店を出た。
本当ならこの後、僕は夏希さんに抱かれる予定だったのだが。
「そんな……君はそういうこと言うけどさ。実際僕に、幸せになりたいなんて言える権利ある?」
滑舌のいいはずの声が、段々とかすれていった。
こういう態度を取られると、僕は悲しいのと同時に怒りの感情が湧くのだった。
「……クソごじゃっぺが」
自分の口から飛び出したのは、思いのほか攻撃的な言葉だった。
「夏希さん……そのイキリがしんどいって言ってんじゃねぇか」
「は?」
「正しいとか優しいとか人様にまで押し付けっから、周りに誰もいなぐなんだっぺな!」
僕はあまりに辛くなって、涙がこぼれそうになった。
「ごめん……ごめん、聖……ねぇ……君、泣いてるの……?」
夏希さんが心配するのも無理はない。
明らかに声が震えていたのだ。
「俺、夏希さんを怒るつもりじゃなかった。けど……内心嫌な思いしてて、聞いてもらえなくて辛かった」
僕が夏希さんから聞きたいのは、「ごめんなさい」のその先だったのだ。
「……まさか、氷上さんだけじゃなくて俺のことも……かわいそうとか思ってんの? だから無理してまで演技すんの……?」
「え? 違う、そんな……そんなつもりじゃ……」
「そうじゃなくてさ、誰よりもまず、自分のための『お姉さま』であるのが筋でしょう?」
夏希さんは無言で、嗚咽を漏らす僕をそっと抱きしめた。
ゲイタウンでも何でもない東京の道端で。
「ラジオで……つい、春原の前で口走った時あったんだよね。もっと早く芸能界を辞めたかったって」
さっきまで言葉の中に満ちていたはずの、怒りの感情が少し和らいだように感じた。
「僕は、僕を裏切らないでいたかった」
アイドルアニメ『きらめきのカレイドル』のリコ……かつて夏希さんが声を当てていた役と、ほとんど同じセリフだ。
「自分自身を救うための俳優だった。でも、そのことを忘れていて……辛くなってた」
「うん」
「周りからもそれはバレてた。本当はとっくの昔に、限界を覚えていたのに」
「うん……」
そう言う彼の首筋からは、かすかに甘い香りがした。
でもそれは、僕も夏場によくお世話になっていた制汗剤とは別のものだった。
夏希さんへ本当のことを言ってしまったのは、果たして良かったのか。
でも、もしもこのまま気持ちを封じていたならと考えると、色々な感情が涙になって頬を伝うのだ。
「君の言う『男らしさ』ってきっと、他の人とは意味するものがちょっと違うのかな。弱いところもさらけ出せるってとこまで含めたもの、なのかな……?」
僕は、そこまでは分からないと答えた。
「でも……夏希さんが、大人だから真面目にしなきゃとか、芸能人だからとかそういう理由で、自分自身を縛り付けてるような気がして」
夏希さんは、深いため息をついた。
「君、若いからってどこまでも分かってる風に言うね」
穏やかな口調の裏側を察すると、胸が針で刺されるような心地になった。
「……ありがとう」
「えっ?」
僕はバッと顔を上げた。
「夏希さん……怒ってない、の……?」
夏希さんは首を振った。
「でも俺、結構失礼な真似を……ってかそれこそ、イキってるのこっちじゃねぇかって」
「いいの。僕と一緒にいるのが辛い理由、ちゃんと口に出してくれる人はなかなかいないの」
そういうものなのか、と思った。
「言わなくても察しろ、が大人の世界だからね」
言われればそうかも知れない。
それに馴染めない人はずっと、言葉にならない言葉が周囲に浮かんでいるのに気づけないのだ。
「ねぇ聖」
「はい」
「聖は……恋人じゃなくても、僕のそばにいてくれる?」
僕が聞きたかった柔らかな声で、ささやくように夏希さんは言った。
優しく僕の頭を撫でてくれて、手を握ってくれた。
「君の言葉を受け入れたら……ゲイだっていうその期待、裏切ることになるけど」
一瞬だけ、何を言おうか戸惑った。
でも僕は、そんなことなんてもはやどうでもいいやとすら思っていた。
「そんくらいじゃ、裏切りになんてなんねぇっつーの」
だから、涙を拭って笑った。
それから夏希さんの手を引いて、明るすぎる夜の街を駆けた。
「ばっ……ちょ、人いるんだから危ないって!」
「抱いて」
「は!?」
「俺を抱いてよ。夏希さん」
恥ずかしくて顔が赤くなったけど、本音を言った。
でも、
「聖……本当に馬鹿なの!?」
夏希さんの方が、僕よりはるかに恥ずかしい思いをしているだろうか。
「馬鹿でごめんねぇ」
「今までの文脈はどこにすっ飛んだんだよ!」
「可愛い人に抱かれるって、むしろ興奮するかなぁとか……ちょっとだけ思って」
夏希さんは吹き笑いをした。
「やだ、君……本当に面白いこと言うね」
息が切れるまで、僕らは笑いながら走った。
アテもなく走ったはずが、いつの間にかホテルの前だった。
「……な? ウケるじゃん……俺だって、ゴリゴリのマッチョばかり欲しがるわけじゃねぇっつーの」
肩で息をして、お腹を押さえながら、夏希さんは爆笑していた。
女装しているわけでもないのに、どこかしら品が良く見えるのはやっぱり不思議だった。
「ほ、ほんと……でもこれは、これはねぇ……あははは……」
「いやぁ、でもさすがに完全な女体だと戸惑うかねぇ」
「でも可愛い人に、あんなことやそんなことされたいって言うんでしょ? 今日は」
夏希さんは、汗だくになった自分の顔を手であおいだ。
「そういうとこ好き」
端正な青年の、最強の口説き文句だった。
初めてだから君を困らせるかも、などと夏希さんは言っていたけど、愛撫のひとつひとつが丁寧で優しかった。
重ねた唇は、柔らかくて気持ち良かった。
気持ち良さに溺れている最中に、僕は夏希さんのそれを奥まで受け入れて……一瞬戸惑ったのに、甘い痺れを覚えた。
「ね……タチをやるって……自分でも変とか思わない……?」
「いや、変とは……思ったけど……でも、聖のそれ……気持ちいい、よ……?」
夏希さんは恥ずかしそうに……でもトロトロしてて、瞳を潤ませていた。
後ろからぴったりと抱きしめられてみたり、夏希さんの上に乗っかる形で、感情を煽るような真似をしてみたりした。
他の男性の前では、何度してきたか分からないようなことなのに、それらとは違った感覚を覚えた。
しっとりと濡れた白い肌と、耳元に吹きかけられる熱っぽい吐息は、想像していたものとは違っていた。
「聖も……ちゃんと可愛い」
どこまでもずっと、夏希さんっぽかった。
それがどうしようもなく愛おしかったから、不思議だった。
シャワーを浴びたのち、素っ裸のままで夏希さんは寝転んでいた。
「ひーくんさぁ……本当に恋愛感情と性欲が別っぽいね?」
「うっ。それ褒めてるの? けなしてるの?」
「事実を言ったまでだけど」
夏希さんは少し寂しそうに笑った。
「さすがにちょっとしんどくなかったですか? 気のせい?」
「あぁ、いやぁ……平気。多分」
「多分って何よ」
僕はその受け答えが面白くて笑った。
「僕も悪かったかなぁって思って……こんなことに付き合わせて」
僕は慌てて首を振った。
「いや! 確かにあの『抱いて』っていうのは……半分冗談だったんです。でもそれ、本当にそうするとは思わなくて……」
あぁもう、恥ずかしい!
誰か、穴があったら入れてくれないか。
「ね? 『抱かせて』って言って、今までの生活に区切りをつけようとか思ってたのが……君から言っちゃうんだもんね?」
「うぅ……」
僕は胸が少し痛んだ。
「夏希さん」
「うん?」
「ニワトリさんと一緒になって、あゆちゃんの写真見て本当に喜んでましたよね」
「あゆちゃん……? あぁ、管理人さんのお子さんだっけ」
やっぱりああいうのが望む人生なんでしょうか、と聞いた。
夏希さんは「それも違う」と言った。
「前にも言ったじゃない。どうして女の人になれないの、みたいなこと」
はぁ……なるほど、言われるとそんなのもあった気がする。
「でも僕はたまたま、女性の服装に安心感を覚えて、自信を付けられたんだよ」
「ふぅん……でも、女優じゃなくて俳優なんですね」
「ほら、それこそ『きらカレ』みたいなアニメの仕事でも回ってくればいいやって話で」
これも、アニメだけでは稼ぎが足らないことを知ったからだとのこと。
「人生は演技だからね」
「演技……人生そのものが」
「孤立しているのが辛くて、寂しい自分をどうにかしたかっただけ。俳優になった元々の理由なんて」
僕はなるほど、と、腹にストンと落ちる感覚を覚えた。
確かに役者は、人に求められた役を演技することが仕事だ。
あくまでもその場の、その役でしかない。
「だから僕でも生きていけるような気がしてた。まぁ、結果は思い通りにはならなかったけどね?」
地声のまま、可愛い微笑を浮かべて夏希さんは言った。
こんな人と裸で抱き合ったのか……僕はなかなか貴重なことをしたのでは。
「そっか。そうなんだ……夏希さんってやっぱ変わってますね」
「うん」
「い、いや、別にけなすとかそういうことじゃなくて」
変わっているけど、だから直さなきゃいけないだとか、変に憤りを覚えるとか、そんなことはなかった。
「……夏希さん……」
「うん?」
「キスして」
この夜が明けたら、夏希さんとは恋人じゃなくなる。
それって悲しい? 寂しい?
きっと……それだけじゃない別れ方だってあるよねということを信じていたくて。
「聖……さよなら」
唇をそっと重ねた次の日、僕はまた夏希さんのいない日々に戻ったのだった。