ギークスロゴ-1

ギークス! 夏希の章(8) 女の子になれない僕のこと

 あるテレビドラマが、ずっと前に話題となった。
 見た目は中学生の女の子なのに、女子制服を着たがらないという子が出てきたらしい。
 それを観た母が、僕の言動を心配しだしたのがきっかけだった。
 そりゃあ心配にもなる。
 僕ははっきりと、「自分は本当は男じゃない。男子校なんか行かなきゃよかった」と言っていたのだ。
 それに対する医師の返答がこれであった。
「うーん……これは……結局、君がこの世でたったひとりであるということを、他の人よりも強く認識しているのだと思うのです」
 あれは、僕と母が高速バスにわざわざ乗って、ジェンダークリニックに通いだしてから何度目かのことだった。
「お母さん。あなたのお子さんはね、まだ確定ではないとはいえ、性同一性障害ではないと思われますよ」
 今の性別が嫌だという原因は、必ずしも性同一性障害ではない場合もあるのだとか……そんな説明を長々と受けていた気がする。
 でも、その日の僕は心が空っぽになってしまったような気がしていて、何を言われたのかあまり覚えていない。

 幼い頃の「夏樹ちゃん」はおとなしくて、女の子向けのアニメを姉と一緒に観て喜んでいたという。
 しかし、一人称はずっと「僕」で固定されていた。
 歯医者さんなどでスリッパを借りると、ピンクの時もあったが、青系でも別に嫌がらなかったらしい。
 でも、だからといって「お姉ちゃんみたいなスカートがいい」とは言わなかった。
 言わなかったというだけではある。
 どんなもんなのかと試しに母が履かせてみると、妙にしっくりくるように見えたそうだ。
 赤いランドセルなんていうのも、もちろん望まなかった。
 おばが黒いランドセルを選んでくれたそうだが、それを嫌だとも言わずに背負ったという。
 でも内心……僕のランドセルの色は黒であるのだということにショックを受けていた。
 相手がおばだから、何だか言うのが怖くて我慢していたような気がする。
 田舎の小さな小学校に入学したが、女の子の友達とばかり遊んでいたのは確かだった。
 他の男の子のように、頭を刈り上げたりするのは好みじゃなかったようだ。
 しかしながら、その時点では両親は特に心配していなかった。
 それどころか「自分の好きなような格好をして、好きな遊びをしなさい」と言っていたので、僕も安心していられたところはあった。
 保守的な地域で生まれ育った人たちなのに、どうしてそんな風になったのか。
 それは出生時のトラブルが原因だとのことだった。
「実は夏樹ちゃんってね、男の子か女の子かが分かるまでに時間がかかったのよ」
 ある冬の晩、母が苦しそうに言っていた。
 見た目の他、染色体などの病気の検査でやっと男の子だと判断されたらしい。
「その検査が長くて……だからね、もしこの赤ちゃんが、お母さんたちが想像していた性別と違っていても傷つかないようにしなきゃって思ってね……」
 こうして僕は、男でも女でも通じそうな名前をつけられたのだという。

 そして、思春期を迎えた僕はセーラー服を着て大騒ぎになった。
 夏樹ちゃんはやっぱり、お姉ちゃんたちと同じように生きたかったの? なんて。
 幼いうちはまだどうにでもなったが、さすがに高校生にもなると、男女の枠組みのいずれかに馴染めないといけない。
 僕本人も、異性愛者の女性になりたいと思っていたのは確かなので病院に行こうということになったが……
 クリニックの先生は自ら、「私は容赦をしないのでね」と言って問診をしていた。
 まさにそうだった。
 言われれば、あのセーラー服を拒む子とは違って、自らの体に違和感はさほど覚えない。
 おとなしい性格だけれど、男児向けの遊びにもそれなりに馴染めていたし、結局高校だって男子校を選んでいた。
 先生は「でもね、もっと後になってから自分の体の性が嫌だと思う方もいらっしゃるのですよ」と言っていたが、数は少ないという。
 それから優しい口調で、でも胸に突き刺さるような質問をしてきた。
「小学校高学年にもなると、体育の授業で着替える時も、男女で分けられることがありますね。保健なんかだと、女子だけが月経の話などを聞かされたりしますね」
「はい」
「段々と、同性のグループを作って遊ぶようになるでしょう。その時、君はどういう風に感じてきましたか?」
 僕は少し考えたのち、正直なことを言った。
「あぁ、それは……先生が別々にします、夏樹ちゃんは男ですって言うならまぁ、そうなのかなぁって」
「そのフワフワした感じというのは、別に反論したいとは思わなかったのですね?」
 僕はうなずいた。
 母も「確かに夏樹は、性格は男っぽいようにも見えます。おとなしいからすぐには分からないだけ」と返した。
「そっか……母さん、そんな風に見えてたんだ……」
 あぁ、それはしんどいな、と僕はつぶやいて、顔を覆った。
「いや、でも……女の子になりきれなくて辛い、っていうのは本当です……すごく頑張るんだけど、モノの考え方が合わない。趣味は一緒なのに」
 僕は、その頃から苦い記憶を背負うようになっていた。
 でも、それは誰かにからかわれたからだとか、仲間はずれにされたとか、その程度の説明では足りなかった。
「あの……プロフィール帳って知ってます? 女子の間で流行ってたんですけど……」
 頭の中を色々とぐるぐるさせるが、その時の感情はぼんやりと苦いだけであって、自分のものとは切り離されているとすら思えた。
「あれ、書いてくれって言われて。あれからとても……怖い思いをしました」

 自分は顔が丸っこくて、色白で、当時はクラスで一番背が低かったものだから、男子によくいじめられていた。
 それを守ってくれたのが、気の強い女子のグループ……今でいう、カーストの頂点だったのである。
「こんなに可愛い夏樹ちゃんをいじめないで!」
 そういう子たちだったから、僕は幸いにもプロフィールの紙を交換し合う仲間に入れてもらえた。
 ところが……素直に嬉しいと思っていたのも最初だけ。
 僕の容姿をダシにして、他の子に「ブス」などという言葉を浴びせていたのも、その気の強い子たちだった。
 夏樹ちゃんは男でも可愛い、けどお前は女なのに可愛くない、気持ち悪いと。
 もちろん、気持ち悪いとみなされた女の子には、プロフィール帳など回ってこない。
 学年でクラスがひとつだけ、おまけに人数は少ないとなると、カースト下位の人間は逃げ場がなくなって辛いものである。
 僕はそれを肌で感じていたためか、平等に不平等なこのジャッジに安堵していた。
 そうなんだ、容姿が優れていればいじめられないんだと信じて疑わなかった。
 でも、いつ裏切られるか、いつブスと言われるのかと、いつも怯えていたのも確かだったのだ。
 男同士の友情だって、意外とドロドロした部分もあるのだが……何で女子はそんなにも、裏で誰かのご機嫌取りをしなきゃ駄目なんだと思った。

 ……この話を聞いていた母は、珍しく沈んだ顔をしていた。
「夏樹は……小学校の四年か五年くらいにね、こう言ってたんです。本当は」
 そして、重い口をそっと開いたのだった。
「『ねぇ、僕がもし男の子を好きになったら、お父さんとお母さんは悲しむの?』って」
 僕は、背中にヒヤリとした感覚を覚えた。
「そんなことない、人を好きになることはとっても素晴らしいことだから、性別なんて関係ないと返したことがあります」

 この、美醜とプロフィール帳の話には続きがあった。
 僕はある日、勇気を出して「好きな人はいる?」の項目の「Yes」に丸をつけた。
 その日を境に、クラスがにわかにざわついた。
 夏樹ちゃんは、女子が好き?
 いいや、もしかしたら男子が好き?
 だって可愛いし、でも、可愛いといっても結局は男じゃないか、といった具合に。
 僕は、さすがにその好きな本人に告白することはできなかった。
 小さな学校だから、これ以上は無理をしない方がいいだろうと判断した。
 ただ耐えて、耐え抜いて、小学校最後の遠足の日。
 なんとその意中の相手から、密かに「好きかも」と言われた。
「僕も……ずっと前から君のことが好き。だからワガママを聞いて」
 そのワガママというのは、恋人繋ぎをしたいということだった。
 幼い僕らには、キスやハグなんて怖かった。
 だから少しの間だけ、誰も見ていない場所で見つめ合って、指を絡めただけ。
 人を好きでいて良かったと思えた、最高の瞬間だった。

 両親は複雑な心境を抱いたという。
 何故なら、物事はそう上手くはいかなかったからだ。
 そのきっかけは、遠足から数日後のこと。
 女子グループのリーダーが、鬼のような形相で詰め寄った。
「あんた、取ったでしょ。うちが好きな相手だったのに!」
 どういうことかと問うと、
「可愛いからって調子に乗んな! 男のクセに!」
 という言葉が返ってきた。
 結局、可愛いかそうでないかという基準なんてどうとでも使えるのだ。
 あの地味な子に向けられていたいじめの刃は、あっさりとこちらに向けられた。
 それどころか勢いは前より増していて、信じていたものはみるみる壊れた。
 ここでの真実は、彼女たちに逆らってはいけないというだけだったのだと思い知らされた。
 その上、付き合うか否かの話になる前に、好きだった相手からは「あれはなかったことにして」と言われた。
 女子の猛烈な嵐に、顔を青白くさせながら。
 そのせいか、僕はストレスによる過食でみるみる太り始めた。
 中学に上がると、かつて僕を褒めちぎっていた子たちは何も言わなくなった。
 男子とは違って、もう「ブス」だとすら言わなくなった。
 そこにいないものとされたのだった。
 その中で第二次性徴をモロに受け、気づけば僕は、自分がとても醜い生き物にしか見えなくなっていた。
 この頃が一番、僕は男の体を憎んでいたし暴力的だった。
 学校でひたすら耐え抜き、家に帰れば、「好きな人を好きになっていいなんて言った、お前のせいだ!」などと、母を殴っては姉たちを泣かせ、父を怒らせていた。

「それで、しきりに『ただ、可愛い女の子になりたかったのに』と……」
 精神科医はアゴに手を当てて考え込んだ。
「親御さんの世代だとね、特に勘違いされる方多いんですけど。男性が好きだというのと、女性になりたいというのが一緒になっている方」
 しかし、お子さんの場合はそれに加えて、醜いことへの恐怖感があるのです、と先生は言っていたが、言われたそばから忘れそうになった。
「……夏樹さん。あの、どうかされました? 夏樹さん」
「は……はい」
「あのですね、また検査で申し訳ないけど、今度は知能検査を受けていただきたいのです。それと、改めて染色体の……性分化疾患の可能性についても」
「え? そこまでするの?」
「いいですか? あなた方は『性同一性障害』の診断が欲しくて、ここまでいらしたと思うんです。しかし私の見立てではまず、そうではないということを徹底的に調べなければなりません」
 僕と母は困惑した。
 しかし、それでも先生は淡々としていた。
「たった一度の人生、しかも性別を割り振られるわけですから」
 そんなまどろっこしいの耐えられるか! と僕は思った。
 実際ブスな男が無理やり女装なんて、ひたすら辛いんだもの。
 移行できるものならさっさとそうしたかった。
 結局、病院での診断がどうとかというのは、こちらが勝手に打ち切ってしまった。
 とりあえず顔がこのままなのは嫌だと思って、高校を卒業してからすぐに整形手術は受けた。
 しかし……
 まだネット上でツイートだの何だのというのがなかった時代に、ネット掲示板で見た数々の移行方法に僕は躊躇(ちゅうちょ)した。
 医師の診断がないままそれを進める人もいるらしく、その人たちはみな「治療なんて待っていたら死んでしまう」などと書き込んでいた。
 しかし何故あの時、ジェンダークリニックの先生は思いとどまるよう言っていたのか。
 その本当の意味を知るのは、大切なものを失くしてからだった。
 僕やあの子が経験した、あの辛い問診の時、もしも思いとどまっていれば。
 まだ……まだ僕にも……いや、僕は別に何でもいいし、諦めや孤独を背負いながらでも生きていけるけど。
 可愛くて、大好きだったあの子にも別の未来があっただろうにと、今となっては思うのだ。
 こんな自分にはきっと、氷上冬馬を守る資格なんかない。