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ギークス! 夏希の章(7) 女の子じゃない僕のこと
かつて、僕は女の子になりたかった。
そうすれば、望むことは手に入れられただろうに。
そんな愚かなことをよく考えていたものだ。
でも、色々考えてきたけど負けてしまった。
田舎の学校で不自由をしてたから、分かってしまっていた。
色白で、目が悪くてショボショボしてて、少しぽちゃっとしてて、一人称が「僕」とか声がしおらしいとか、そんな人間が生活すると、絶対にからかわれる。
訛っていても何でもないのに。
でも「僕」は「俺」じゃないという違和感があるのは本当だった。
そんな乱暴な呼び方で、人様のことも名字で呼び捨てにして。
殴り合いの世界が当たり前だと、信じてやまないでいて。
そんな真似ができなかった。
でも、いわゆるオカマの人間だと差別されるのには傷ついたから、必死でそれらしい振る舞いをした。
でも、可愛らしいセーラー服を着た自分のことは大好きだった。
メイクをすると別人になれるのだということに喜んだ。
ところが。
「……古田土(こだと)さんって、やっぱり違うなぁ」
当時の同級生のマコには、こんなことを言われてしまった。
そんなにも、女々しくてねちっこい喋り方だろうかとショックを受けた。
「な、何……? 違う。そういうことじゃないし。もう嫌だよ。聞かないからね、オカマだとかっていう話は」
僕は怒ったが、学ランのメガネくんは、いやそういうことじゃないんだと返した。
「違う。君さ、女の子だよ」
その言葉に、僕は安堵感と違和感が混ざった感情を覚えた。
「え、何で? いや、そりゃ可愛い服好きだけどさ、そんな、内股で、上目遣いで誘う真似とかしないじゃない。喋りだって違うだろ? 精神はそうじゃないんだから」
「え? そう……?」
そうなのだ、セーラー服の僕が明らかに変だったのは、自分のことを「あたし」などと絶対言わないからだ。
「それ、気持ち悪いから。『なのよ』とか『だわ』とか言わない……!」
「そうだろ? それ普通じゃないし。いつの時代?」
は? と、僕は素っ頓狂な声を出した。
「そういう態度でそういう喋り方をするから、俺は、むしろ女の子なんだと思ったが」
メガネ越しの彼の瞳は本気だった。
「君……本当に、世の中の女の子がそんなに、内股で、上目遣いで誘って、自分のことをあたしと呼ぶとでも思っているの? そんな、薄っぺらいイメージだけがすべて?」
そう言われた瞬間、僕は恋に落ちた。
「でもさ、自分を『僕』と呼ぶのはせいぜい……中学生ぐらいまでが限界じゃないか? 『私』にでもしないとそろそろ怒られるよ……」
彼は、色気と爽やかさが半々の声で言った。
恋は盲目とはこれだ。
僕はその日を境に、一人称を「私」にすることに決めた。
「でも、君のそういうとこも好きだよ」
マコは少し変わっていたというか、人様に寛容だった気がする。
でも、一方でアニメにのめり込んでいて、いかにもなガリ勉で。
目鼻立ちが凛々しくなければ、すぐさまイジられキャラになっていたであろう人である。
次第に、そんなマコとはとても仲良くなった。
彼が僕に近づいてきた理由に、内心イライラしながら。
「……マコ、最近私のことほったらかしだよね」
他にも友達はいたが、一番気にしていたのはマコだった。
だって、本当は恋愛対象だったから。
でも言えなかった。
あの子に告白して、付き合うようになってからはずっと上の空だよね。
女の子みたいだから、きっと本当の女の子の気持ちも分かるんだよねって言って、頼りにしてくれたあの日々は何なの。
あれ、内心めちゃくちゃムカつきながら付き合ってやってたのに。
お前がカードゲームばっかやってるような人間だから、じゃあそれだったら楽しいわと思ってたのに。
彼女できてから変わったよね。
何でそんな、女装する前の僕をガン無視してた頃に戻るわけ?
……などと、正直に言えたらどんなに楽だろう。
「古田土? どうかした?」
「お前ってさ、誰にでもすぐ『好き』って言ってその場を丸く収めるよね」
自分が想像していたよりも、低くて冷たい声が出た。
「何? 怒ってるの……?」
「そうやってさ、結局人を取っ替え引っ替えしてさ、好かれてるんだよね」
僕は多分、この時生まれて初めて……家族以外の他人に暴力を振るった。
マコはとてもショックを受けたようだった。
「その聡明さはいらないだろ!」
女々しいと言われ続けたはずだったのに、やっぱりその声は低くて太かった。
何よりもまず、攻撃的だった。
彼の頬をぶった自分の左手は、いつまでもジンジンと痛んでいた。
目の前にいる彼は異性愛者である。
湧いたのは嫉妬だった。
そうか、女の子になればこいつを奪えるのか。
……本当は違うけど、絶対に違うけど。
そうだとしても、僕は幸せにはなれないだろうけど。
だって彼を抱きたいんだもの。
抱きたい。
やや筋肉質の汗ばんだ身をよじらせて、涙を浮かべて僕を欲しがるような彼を。
普段は死んでも漏らさないような、なまめかしい喘ぎ声で、ちょうだい、ちょうだいと口にするような彼を。
もういいんだ、この際何でもいいから抱きたい!
……は?
抱きたいとは何なんだ。
それはなんて気持ち悪いのだろうと思った。
気持ち悪いのに逆らえない衝動だった。
冷たい空気の中、抱いていたのは長袖ジャージ。
快楽を与えるのは、自分自身の汚(けが)れた指先。
僕はなんて……恐ろしくて、気持ち悪い人間なのだろう。
マコの彼女は、そっとささやくような声の、黒髪の美少女だった。
「ね、夏希さんでしたっけ?」
僕は何故かネット上で仲良くしていた。
「はい。いいんですか? この格好してても……」
「わぁい、本物のお姉ちゃんだぁ」
ひとりっ子の彼女は、僕を姉のように慕っていた。
「可愛いね」
「はぁ、どうも」
彼女もアニメ系のオタクだったから、僕も浮かれる日はあった。
女の子のオタク友達も欲しいなぁ、あのさぁ、彼女のホムペ教えてよなんてマコにも言っていた。
それは本心だ、本心だが……
「本当に可愛いね。オタクっぽく見えないね」
何故、ファストフード店で直接会うのか。
それは僕の負けを意味するのに。
相手ののんびりした口調に、イライラするしかできないのに。
「それ、チカさんもそうだよ? 清楚な女子高生に擬態するの、うまいね」
目尻を緩めて、口角を上げる。
マコといる時よりもしおらしく、でも媚を売らないような微妙な感じを演技する。
どうしてだろうかと思った。
「えへへ、そう言われると嬉しいな。見た目に気を遣わないと、BL漫画読んでるのがみんなにバレるからね」
「あぁ、分かる分かる」
この、男性同士の恋愛漫画を平気で読む彼女が、マコと交際しているというのが憎たらしかった。
「あぁ、清いね。チカさんは」
「お姉ちゃんって、本当にお姉ちゃんって感じだね」
「ちょっとギャルっぽいかね、それはヤバイね」
「あぁでも、ヤマンバとかじゃないから……好きだよ?」
あぁもう何だその口の利き方、マジでウスノロだ、それでからかわれないとかいいご身分だなと思った。
「で、そのギャル見えが……」
「腐男子(ふだんし)とか最強だね」
本当はそうじゃないけど、その括りなのかと内心凹んだ。
「だよね、チョベリグって奴じゃね?」
「やだ、チョベリグ。いいね」
ギャルに見えるって、それは……そこまで派手にしないと、男臭さが隠しきれないからなんだけど。
小心者には言えるわけがなかった。
「そのアイシャドウの引き方、とても慣れているね。色の選び方も可愛いね」
「やだぁ照れちゃう」
別に照れないけど、とりあえずそう返した。
「今度、参考にするね?」
絶対嘘だろと思った。
「そう? でも私、そのリップの色が似合う君の感じもいいなぁって思う」
「学校ではつけれないの。赤は」
「いいよね、赤!」
お前は何故、その赤で存在を承認されるのか。
そうやって、異性の僕を罵るのも大概にしろよと言いたくなった。
「ううん、人のいいとこは別々でいいの。夏希さんはその、ベージュの方が似合ってるならそれでいいの」
「やだぁもう、いやどうも。そんな風に言われるとマジ照れるんだけどー」
「そうけ? デレデレなのけ? じゃあいっぱい照れてね? ふふっ」
そのお嬢様的な笑い方がムカつくのだった。
どうせそれも、お姉ちゃん系の女にウケるように作ってきただろうに。
その訛り方もだよ。
その意味でのそうけ、なのけ、はそのアクセントじゃないだろうよ。
「お姉ちゃんはその色だから、ガサツっぽく見えなくて可愛いの」
「そうけ? 爪はガサツ感満載だよ。ほら。短くてさ、塗らないじゃないか」
爪を伸ばして塗ると、ロクなオナニーができないからっていうだけだけど。
僕は、そんな下品なことはさすがに言えなかった。
同性にも言えなかった。
「いいんじゃない? 清潔感あっていいよ」
娘さんはニコニコしてフォローしてくれる。
でも、その程度じゃ僕は安心できない。
「学校って、どうせ長く伸ばすと怒られるし、ネイル禁止だしねぇ。いいんじゃない?」
「いやぁ、可愛くなれないよねぇ」
「そんなことない。いいなぁ、夏希お姉ちゃんは自由で」
「あのねぇ。こっちそもそも男子校だからな?」
「ふふっ……そうだね、そうだったね。そもそもが。いいね、超イケてるね。その自由なとこ好き」
ムカつく。
ムカつく……!
こいつぶっ殺す……!
「でもさ、チカさんの高校もそんなさぁ……」
「あ、チカ、内緒にしてたけど、ほんとは中学生なの」
お前……!
マコお前……このロリコンめ!
殺すべきなの、むしろマコだった。
「でも、ボーイズラブ大好きなイケナイ子なの」
「そうか。まぁいいよ、お姉ちゃんは腐男子として歓迎だよ。空気とか、壁とかになって、男の子たちの恋愛を生ぬるい目で見守るがいい」
僕はありったけの可愛い笑顔で、腹の底の感情を封じ込めた。
「みんなイケメンだし、可愛いしね」
しかしながらこの、声が細くて可愛いという事実を突きつけられて、僕は精神が揺らいだのだった。
「あぁ、ね。可愛いよね……そうだ、そうだよ。この子のこの寝取られ方可愛いよね」
「わぁい……!」
「つか、本来はこの話をしに来たんじゃん。うちら何パンピーぶってたんだ……」
そうだよ、お前ごときがパンピーぶるなよ、と思いながら言った。
もっと意地の悪いデブになれよ。
もっとニキビだらけになれよ。
……等々、思うところは多々あったけど、彼女はそのうちのどれにも当てはまらなかった。
「だよね? イケナイ子だね? 腐ってるって罪深いね?」
「だね」
「でね、でもね、チカはもっと罪深いよ? この前うっかりね、ネットで読んじゃったのね」
「何? またあの、子供は見ちゃ駄目っていう二次創作?」
あぁ……疲れた、彼女はこれだからクソ生意気だった。
「違うの。本物さん向けの、毛がすごくて汗臭くて、筋肉ムキムキのエロ漫画」
「え!?」
ば、馬鹿……!
僕は、こればかりは引き笑いするしかなかった。
「でもさ、あれもファンタジーなんだろうね。男の人だってさすがに、四六時中やおいのことなんか考えたりしないよね。あの野郎を雌(メス)にしたいとか言わないよね?」
ちなみに、やおいというのは「ヤマがなくてオチがなくて意味がない」の略で、転じてBLなどを指す。
「だよね、だよね! ウケる」
ウケないよ。
この時の僕は段々と、笑うのが本当に疲れてきた。
笑ってもさ、チカの目の奥は笑ってないどころか、死んでるんだもの。
目がうつろなのに、それでも僕の相手をしてくれているんだもの。
「あぁごめんね。ヤバイね、メスって……こんな言葉が平気で出てくるって本当に腐女子だね。これはルール違反」
「や、でも男に直接言うわけじゃないしさ、実在はしないよねっていうのちゃんと分かってるよっていう発言だもんね」
「そうだよ、分かってるよ。現実にホモはそういないよ?」
ここにいるけどな?
少なくとも戸籍上はそうなるのだが。
というかその言い方は罵る意味になりがちだから、本当はあまり推奨されない。
「でね、その上で、漫画の中のムキムキのガチホモって、よくよく見ると顔がいいんだよ?」
「おい……チカそれはな、ないない」
「ないない、なの?」
「そうだよ。チカそれ……マジで超ウケるし」
ギャルの見た目をした人間の、手を叩いて笑いながらの「マジで超ウケる」なんて大嘘だ。
それくらい分かるよな? 分かれよ、と思った。
「そうかな?」
でも彼女は引き下がらなかった。
意外だった。
「ホモってっていうか……男の人って、その人に萌えるかどうかは見た目で判断するって聞いたことある」
「あぁ、そっかぁ」
いや……それは、本当は僕だって分かってたよ。
ネットで散々調べたが、二丁目系の人間は人の美醜への執着が恐ろしいらしい。
「やっぱそうなの。夢見てるね?」
と彼女は言った。
「そうなの。だからみんな必死に肌焼いて筋肉鍛えて、ヒゲ生やしてるんだね。男にモテたい男の人って」
「大変だねぇ、ゲイの人」
と僕は言ったが、本当に大変なのはきっとそこじゃない。
「チカ、女子で良かった」
「じゃあいいじゃん、可愛いじゃん」
本当そうだよ、と思った。
作り笑いをする僕の胸は、苦しくなった。
「うちはどうせ女子なんだよ」
そう、僕のことは女子のうちに含めないとかね。
それはもう、それでいいんだけど。
「ね? そういうもんだって私も思うよ。それで可愛いならいいじゃんよ」
「そっか、お姉ちゃんにそう言われると嬉しいな」
多分これ……嬉しいというのは嘘じゃないのだろう。
よっぽど精神が病んでなければ、可愛いと言われて傷つく女性はそういない。
ましてや、目の前で褒めてくれるのが、メイクと着やせテクで必死に、あら隠しをした僕なのだから。
「現実との区別がつくからこそ、ああいうので逃避すんのが好きな女子。それで別にいいんだよ」
「ね? マコさんってそこ、微妙に分かってないとこが男子のオタクだよねぇ」
「だよねぇ、それあるわぁ」
「やだねぇ」
それ迷惑だねぇ、とチカは言った。
でも、色ボケた女子特有で、それは愚痴でしかないので、本当の迷惑ではないのだ。
「や、でも僕も分かるけどさ。男子だけどね、オタクだけどね。腐っちゃってるから賛同するしかないね」
ふーん、腐ってるんだぁ、と彼女はやや冷たく言った。
「……ブスな男が、何を言ってんの?」
口だけが満面の笑みを浮かべていて、ウスノロ口調のままで、チカはとどめを刺した。
「にわかじゃん。ブスなにわかよ」
彼女にとっての僕とは……
友達じゃなかった。
本物の女じゃなかった。
おそらくゲイでもなかった。
腐男子ですら、オタクですらなかったのだ。
元々が麗しくなければ、腐るという概念がないのだというのを、彼女は見事に言い放っていた。
僕は負けた。
負けたというか、もっと昔の経験から、物事を勝敗の眼差しでしか見られなくなっていたのだ。