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ギークス! 僕らの章(5) 愛にラベルを貼ること
別れの朝だったけど、ドアが閉まる直前に「デートさせてください」と言った気がする。
水郡線の水戸行きが止まっている駅のホームで、彼女に見える彼がスーツケースを引きずるというのは妙に目立つ。
「いやぁ、うちに遊びに来てもらったのに、ニワトリさんやら何やらが変な真似してすみませんでした」
夏希さんは顔の前で手を振って、微笑んだ。
「美香子さんね。あれも『お姉さま』の仕事のうちよ」
「その柔らかい声で言われると、本当にそれらしく見えちゃうとこがパネェっスよね。あなた」
「やだ照れちゃう♡」
「キャラでもねぇ返しすんなよ」
すっぴんじゃない夏希さんは、まさしく麗しいお姉さま。
一周回ってヅカの男役である。
「いやどうも……でもそれ、ぶっ通しでやるのはやっぱしんどそうですよ」
「あぁ……そっか、そんな風に見えてたね。やっぱり」
メイクは嫌いじゃないのになぁ、と夏希さん。
それはまさにその通りで、この日も朝から暑いのに女性らしいメイクをしていた。
その「らしさ」がさり気ないというのはきっと、顔の骨格が琴子さんやツマさんに似ているというせいだろうか。
すーちゃんさんがラジオで言ってた、整形? いや……そこまでは本人には聞けないか。
「うん。別にさ、うちに来てた間はあの格好じゃなくてもいいんじゃないっスか? 誰がすっぴんだの何だのって気にするおじさんいないし」
「えへへ。頑張っちゃうのが好きなのかねぇ」
「い、いや、あの、別におしゃれな夏希さんをディスるとかそういう意味ではなく……今日だって、格好いいけど可愛いし、その……」
僕は唸った。
その視線の先には、ローカル感の溢れるドラッグストアチェーンの看板……
「田んぼと山しかない地方であえてメイクして、スカートを履いたっていうの。お医者さんに、その格好で生活してみなさいって言われたの?」
夏希さんは何とも言えないらしく、
「いやぁ……まぁ、やれるもんならやってみなとは言われたけども」
と言ってしばらく考え込んでいた。
何だその、脅しじみた医者の発言は。
「あのね、俺はただの男子なんで、事情はうっすらしか分かんないんですよね。ホルモンと手術で全部解決、とまではならないよね?」
周りの人は僕らのことなんて気にしてもいないのだが、それでも夏希さんは小声になった。
「うん。ああいう人らは趣味じゃないでしょ? だから望む性別で暮らしてみなさいっていう試練があるよね」
夏希さんは「まぁ、僕はそういう人じゃないけど」ということらしかった。
じゃあ何でこんななのか、というのは……色々と微妙なので聞けないでいた。
「さすがに女子トイレに入ってみるとかはしなかったからか、変な目で見られることはないんだけどさ……」
この言葉、界隈の他の人間が聞いたらどう思うだろうか。
芸能人としてやっていけるレベルの人だから、というのを考えてもやや複雑な気がする。
「ひーくんの前だと、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって……」
「マジっスか」
だからその、(女性でいうとこの)ショートの地毛でいて、シンプルなロゴTと羽織り物、黒のスキニーという格好で落ち着いたのか。
でもオレンジの口紅を引いているし、色白で体毛がないせいか、やっぱりお姉さまに見える……
その上足元は、スズキさんからの誕生日ブレゼントで彩られていた。
口紅よりやや濃いオレンジの、歩きやすそうなフラットパンプスである。
っていうかスズキさんは紳士にも程があるだろ、その足のサイズいつ調べたんだよ。
「あのねぇ。君のせいだよ、君の!」
「え? 俺? 何が?」
この田舎で自分がゲイとかほのめかすからだよと、小声で夏希さんは言った。
「だからさ、普通の人とは逆の読み方……僕が男であるかどうかの判断をしてきたじゃないの」
「え、何、マジかよ。そんなにこう……何か読んでる風に見えた?」
夏希さんはコクコクとうなずいた。
あぁ、でも知らない間にジロジロ見てたかも。
ちょっと申し訳なく思った。
「確かになぁ……夏希さん、仕草にめちゃくちゃ気を遣ったんじゃない? 男とも女とも取れない、でもキワモノじゃないとこを突っついてくるみたいな」
「でもさ、よっぽどじゃないと男っぽい言葉になってるよね? 自覚してるけど、なかなか直らないの……」
おいその声で言うかよ、それ本気かよ……!
自分がいかにもなオネエだったら、今あんたをぶん殴ったわよ。
「なるけど、声は女性として違和感ありませんし。そんなに気にならない。他の人だとそうは行かないですよ」
すっぴんじゃない夏希さんは、本当に抜かりがない。
彼はマッチョ臭いヒエラルキーの最下層だが、同時に女らしさを要求される世界ではトップで、選べる権利などいくらでもあるということを思い知らされる。
「うっ……ひーくんやっぱ厳しい。ネットの人らよりはマシだけど」
「いやぁ、ごめんねぇ。でも、すっぴんの夏希さんの、ゆるゆるしてて変なデザインのTシャツ着てるとこも嫌いじゃないです」
あれは夏希さんによると「普段着っぽい男の私服は、正解が分からないからね……」とのこと。
分かる。
「君ね、そう言うじゃん。二丁目のバーでもないのにそっちのジャッジをしてくる人間は初めてだよ」
夏希さんは口元に手を当てて、品の良い笑い方で笑った。
「それにさ、僕の中の男らしさがいいって……それね、可愛い乙女のセリフだからね」
でも、笑いながらも若干苦しそうではあった。
「いいです。俺、夏希さんになら『可愛い』って言われたい」
「は……」
「……はぁ」
言ってから僕は、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。
緑色に光るドアボタンを押して、夏希さんとスーツケースを無理やり列車に押し込んだ。
「ふふっ。やだ、君本当に……一緒にいると面白いね。そういうとこ好き」
こ、こいつは!
腹の底で色々とくすぶらせておきながら、そうやってまた僕を惑わせる。
「ありがとう。楽しかった」
役者らしい、滑舌のいい美男子の声で。
ならばもういいのだ、本人が彼か彼女かなんて。
そんなちっぽけなこと、ディーゼルの汽笛に全部かき消されてしまえばいいのだ。
消されてしまえば……僕は、清く正しい人間でいられるだろうに。
漫画のキャラみたく、「お前だからこそ好きなんだ」と言えただろうに。
僕と夏希さんのお付き合いは、遠距離というのもあってかなかなかもどかしいものがあった。
それに……やっぱりあの、診断書の件が引っかかるというか。
夏希さんって何者なのか……僕は、頭の片隅ではこれのことをずっと考えていた。
恋人同士であることを辞めた、あの秋の終わりの日まで。
その日も仕事の合間を縫って、一緒にご飯を食べに行くことにした。
「ひーくん、わざわざこっちまで来てくれてありがとう」
なんと、この日は例のお姉さまボイスを封印していた!
正解が分からなくて困ると言っていた、男性の私服を着ていたのだった。
彼が僕とデートする時はいつもこうだった。
お出かけ着みたいなのだったら大体の感覚が分かるのか、美しいって怖いと能天気に思っていたものだ。
「あぁ……まぁ丁度息抜きしたかったし。東京の美味しいご飯紹介してくれて嬉しいです」
「本当はこういう店、あんまり来ないんだけどね」
チェーン店ではなく、その土地の上品な感じのレストラン。
パスタの中で一番安かったペペロンチーノだが……間接照明に照らされる中食べるのは、ちょっとだけドキドキした。
「美味しい?」
「はい!」
「バイトの給料を貯めてたので、僕は今からデザートも食べます」
僕は自然と笑みがこぼれた。
「ふふっ、どうぞ。俺、誰かが美味しそうに飯食ってるとこ見るのが好きなんスよね」
「やだ……恥ずかしいな」
役者なので食事制限をするという夏希さんでも、チョコレート系のスイーツはつい食べてしまうのだという。
チョコ……かぁ……それ何か、メンタル病んでる人がよく食べるイメージあるわ。
「ちょっとさぁ、仕事で……しんどい思いしてたのね。だから憂さ晴らしするのもお許しください」
「はいはい」
ここまで来てもらって愚痴になるのも申し訳ない、と夏希さんは言った。
元々地声が女性寄りなのか、普通に喋られてもあまり威圧感を感じないものである。
「夏希さん? どうかした? いいよ、俺聞くだけにはなっちゃうけど、聞きます」
夏希さんはアイドル系のゲームをやったり、そのアニメを観るのが趣味で、僕にもよく話してくれた。
そういう時の夏希さんは本当に楽しそうで、愛おしかった。
ところが。
「いやぁ……LGBT特集とかマジ勘弁してよって」
「いやどうもLGBT」
「最近流行りのLGBTですが」
「おい待てそっちのネタですか」
僕は打ちのめされた。
夏希さんの愚痴ってそんな……いつもはゲームで推しの子が引けなかったとかそんなのじゃん。
そんな、いつぞやのニートハウスのノリかよ、「研ぎ澄まされた刃」感のあるアレな話なのかよ!
「いやぁでも本当反応に困るの。あれで勘違いする人とかビジネスやりだす人とかワラワラ出てこられてもさ」
聞くと、夏希さんは危うくそういう番組のネタにされそうになって、出演をすぐさま断ったという。
その代わりに、一度だけのゲストだが、別のテレビ番組で「美女すぎる男性俳優」としてのオファーをもらったとか。
そういうのはあらかじめ聞いていた。
「真面目な番組だったなら、むしろ下品なバラエティーより素直に乗っかるかと思いました」
「それはない。向こうの、お涙頂戴のシナリオに乗っかってられっか」
「はぁ……そっか。まぁね、そうっスよね」
でも最近やっと、実情に沿ったようなのも取材してくれんじゃないですか? と僕が聞くと、
「それはそれで周囲が変な勘違いを起こすから、少なくとも僕は受けちゃいけない。何も話せない」
夏希さんは渋った。
「そんな気軽に、やれホルモンだのオペだのっていう話を言われるとさ……駄目だよ、あれは。氷上冬馬のこと、守るって約束したのに」
夏希さんは、同じユニットの仲間だった氷上さんが人前に出られなくなった理由を知っていた。
氷上冬馬さんはまぁ、琴子さんがめちゃくちゃ大好きな美男子だったんだけども……どうも色々アレらしい。
「オペの方法とかさ、そういうのをテレビで笑って言いふらす人がいる。そういう人らと相性が悪いのは、僕もそうだし」
こういうのを面と向かって聞くのは初めてだが、なかなかしんどい話だ。
レインボー的なものでまとめとけばみんな平和そうに見えるが、そうでもないのか……
夏希さんのことだから、カメラ回ってないとこでスタッフにマジギレしてそうだ。
「え? でもさぁ、そういう人がいるんだぁっていう知識が広まれば、その分理解者も増えない? 何で氷上さんも夏希さんも、隠そうとするの?」
夏希さんは眉間にシワを寄せた。
「ひーくんは甘い」
デザートのガトーショコラを口に入れ、夏希さんは言った。
甘くないのかよ……
「悔しかった。もし自分があんな目に遭ったらって考えると、未だに怖くて泣くんだから」
「怖い? 怖いって何が……」
「『氷上冬馬 ゆりめぐり公録』で検索かけてみて」
お枕声優と共演してたとか、この人の話はいちいちエッジが利いていて大変なのだが……
僕は慌ててネットで検索をかけた。
それによると氷上さんは、ラジオの公開録音ののちに公の場から姿を消している。
「氷上さんが、自殺……未遂……?」
いや、これ憶測だろと僕が言うと、夏希さんは首を振った。
「君だったら氷上を馬鹿にしないっていう前提で言うけど……」
「はい。琴子さんの推しを馬鹿にできる勇気はないんスけど」
「あの子の知り合いはみんな、これが本当だと分かっている」
「そん……な……」
うっすら分かっていたけど、僕はそれでもため息をつくしかなかった。
「だから僕……その時期あまりにしんどすぎて、仕事の休憩時間にトイレで泣いてたの」
案の定、その時のラジオ番組を回していた歌手は炎上したらしい。
「観月ユリナっていう歌手。あれ氷上の学生時代の先輩で、元々がアレなんだよ。仲良しだって彼女は言ってたけど……」
「本当は、影で氷上さんをいじめていたんですね?」
そんな状態なのに、不仲でないところか氷上さんの理解者であろうとしていた……
ぼんやりと想像するだけだが、僕は寒気がした。
「お客さんとして、いたから。公開処刑みたいなあの場所に。でも僕は裏側のことは何も知らないでいて、氷上は大変なのに仕事受けてすごいなぁって浮かれてたんだ」
夏希さんの話は、どこぞの怪談よりも怖かった。
もし僕がゲイであることを隠したいのに、他の誰かがそれを良しとしていなかったら……
自らのことを明かさないのは悪いことだというのを、態度で示していたら……
いや、これでもまだ命を絶とうとかというレベルではない。
しかし……氷上さんは絶とうとして、たまたま失敗しただけなのだ。
「『ホルモン打つでしょ? 手術して胸、取るでしょ? そうしたら昔の、キー低いはずの歌も駄目になりました』って、あいつは氷上にそう言わせたんだよ」
氷上さんはその間明らかに緊張していて、ずっと水ばかり飲んでいたと夏希さんは言った。
「でもユリナさんは、あくまでもフォローしていた。『中学の時に誰かによってガラスが割られてて、割った犯人のうちのひとりとしてね、氷上ちゃんが疑われていたけどそんな子じゃないのよ』って」
「それだけ聞いてるとね……優しい方ですよね」
そうだよ、それだけ聞けば本当にいい人なんだよ、と夏希さん。
「だからって、男への移行具合をズケズケ聞いていいわけないじゃない」
夏希さんによると、氷上さんは知り合いが相手だと、嫌なことでもなかなか断りづらいのだという。
「僕がならあんな下品な仕事は死んでもやらない。『ホルモンやっといて途中で辞めたって、どういうことなの?』とか聞かれたらたまったもんじゃない」
「は? そこまで?」
「それをさ……言うの。よりによって氷上冬馬にだよ?」
オープンリーな人間とは相性が悪い、とは。
僕はそれぞれの世界の違いに打ちのめされた。
さっきとは別のウェブサイトで、ニュース記事を見つけたのだ。
「氷上さんが、か……あの……これ、マジで?」
スマホ画面を夏希さんに見せた。
タイトルからしてえげつない。
「君だったら起こりにくいとは思うよ。これは」
当事者の間で使われる「パス度」という指標。
パス度が高ければその、本人の望む性別に見えているということだが、氷上さんの場合は周囲にあまり男性としてみなされていなかったのでは。
それでもホルモン治療などを積極的に行ってこなかったということは、本当は……などというのが書かれている。
「『性同一性障害は嘘じゃないか』なんて……週刊誌の記事とはいっても、氷上さん全否定じゃねぇか」
「後でトランス当事者が反論の記事を書いたけど、それでオペを済ませた人間のひんしゅくを買って、また変な方向にモメた」
「え? 待ってよ、マジありえないし……」
「もうそこまで行くとさ、氷上の言い分が正しいかどうかは誰も言わない」
本当のことは本人にしか分からない。
でも、襲われたことをきっかけにセンセーショナルな記事が組まれ、その上本人のプライベートにまで踏み込まれる。
「氷上本人のことなんか本当はどうでも良くて、みんなは自分たちの手術がどうとか、戸籍がどうとかっていう話のネタにしてただけ」
「そんな……こういう記事って、そういうことでしかなかったの?」
「誰も、氷上を救う方法について教えてくれなかった。ユリナさんですら、そのネット上のお気楽な連中に乗っかってた」
「ユリナさん……って、あれか。『肩幅が広いとか足のサイズが大きいとか、声が低いっていうのをからかわれる』っていう自虐ネタの人か」
彼女、ネタに出来るか否かの差を見誤ったのか。
「マジふざけんなよって思ったよ。あいつ」
「あぁ、でもそっか……そうなります……よねぇ」
やっぱり、夏希さんと僕では見えているものが違うのだ。
「氷上、マジで診断書を持ってるんだから。なのにその苦しみは大したことない、ギャグにしてみろって言われるってさ、それヤバイの君も分かるよね?」
「うん……でも当事者じゃないから、どうしても理解できないとかっていうのもありますよね」
夏希さんはうなずいた。
「その重さ、僕だって本当は分かってなかった」
「ただ、分からないなりの配慮とか受け入れとかっていうのは……」
「難しいよ。ユリナさんみたいな無責任なことを、昔だったら言ってた」
それは仕方ない部分もあると思うが、夏希さんはどこまでも自分に厳しかった。
「なのにさ……安易に、氷上は自分が男じゃないことを受け入れたのかとか、うっすら喜んでた。本当に馬鹿だった」
苦しくても、悩んでいても、ありのままが素晴らしい。
会場からは温かな、しかし本当は軽薄な拍手が沸き起こった。
あれがもし生放送だったら、とても悲惨なことになっていたという。