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ギークス! 聖の章(9) 「男が好き」と言い張るリスクと、それでも好きだということ

 あぁまずい。
 こんなとこで、女装家のすっぴんに対して心揺れるわけには。
 抱きつかれる時間があまりに長いので、ヒヤヒヤだったはずの心は別の意味で冷えてきた。
 あぁ、やっぱり夏希さんは……一緒にいると、結局辛くなってしまうんだろうなぁということが見えてしまう。
「夏希さんって、ズルい人間は嫌い?」
 僕は恐る恐る聞いた。
 本当は聞いてはいけないことだ。
 真綿で絞める、とはこういう感覚なのかも知れない。
「人は、間違ったことをしてはいけないと思う……? どうなの? 夏希さんは」

 夏希さんとの初日の夜のことには、本当は続きがあった。
 本当はそんなに、すんなりと眠りに落ちることはなかった。
 ニワトリさんが自室でもシクシク泣いていたようだったのが、うっすら気になってはいた。
 一方の夏希さんは別のことを気にしていた。
「そういえば……ことちゃん、二年前に喋ってたけど……マコと結婚するつもりなの?」
「結婚するつもりだった、です」
 あぁなるほど、と夏希さんは言った。
「じゃあ、君がマコを取ったりとかしない?」
「……おい……しねぇよ……」
 そうなるんかい。
 確か二年前に夏希さんがうちまで遊びに来た日、僕は東京のバンドのライブに行っていた。
 男性とライブを見に行ったが、その後はイチャイチャしてたとは言わなかった。
 言わなくても琴子さんが言っちゃうから! ふざけたノリのついでに!
「その、どこまでやったとは聞かないけど……夏希さん、あのクソ色白の偏屈が好きだったんですか?」
 夏希さんはうなずいた。
 いやどうも、マコさんとどこまでというのはうっすら分かる気がしないでもない。
 でもって、好きだというのは、学生時代の一過性のものではない恋愛感情だったのだという。
 まぁあるある……いや、ないない!
「何故それを俺に言う」
「いや、ことちゃんが君のことそれらしいように言ってたし。二年前も、君がどこかに泊まってるのをいいことに何か喋ってたし……いいのかなぁって」
 そりゃ事実だが……アウティングのプロこえぇ。
「お酒に酔ってて、何かペラペラ喋りだしちゃってごめんなさい。マジ重いよね」
 そう言いつつも夏希さんは早くもお酒は二缶目に突入した。
 このノリにシラフでついていくのはしんどい。
 僕も少しならよかろうと思って、大して美味しいとも思わぬビールに口をつけた。
 ひと缶の半分くらい、だろうか。
「男の人、好きになって良かったのかなぁって思ったんですよね。思春期で、性欲我慢できなくて困ったんだけど……その性欲、何で女の人に向かないのかなぁってずっと悩んだんですね」
 男かよ! シモかよ!
 女の人に向いたら、それはそれでしんどいだろうよ。
「それでね、アイドルやりだして、ライブでこっちに帰ってきたら、ファンの中にマコがいてね」
「で?」
「マコに犯された」
 は、はい?
 いや、いつの話かは聞いたが、その当時のマコさん……なんとまぁ既に立派なEDで、そういうのがままならなかったのは琴子さんから無茶苦茶聞かされたよ。
 どういうこと? 手でコキコキされたのを指すのか? ノンケのマコさんが口で致すのはありえんし。
「あぁ、違うか。『あの時俺に性欲抱いてたんだろ、俺を抱けよ』って言われたんだから、それは……」
「うぐっ」
 何それ気持ち悪い……!
「あぁでも、それは……僕が服を脱がされて、半分脅されるみたいに体を触られて、それで……そうなったのだから……」
 何それ、エロじゃなくてグロテスク!
「恋人にはなれない、でも友達にならなれるからって…」
「シモの友達ですか」
「はい、シモのフレンズです」
「そんなエグいギャグいらねぇ」
 だが、本当は……マコさんおったたなかったんだぜ?
 下手すりゃ……未だに、治ってないかもなんだぜ……?
 あぁでも、俺を抱けってことは、下半身の前の方が駄目だからそうならざるを得なかったと……?
 そんなまさか、本物の豚野郎じゃねぇか。
「いや、でもなっきゅんは何にしてもそこに至ったのでしょ。ノロケか」
 いやどうも! 話聞くって、全然ざっくりにならなかった!
「さっさと帰れバーロー!」
 僕は割と大きい声が出てしまった……
 さすがに酔っぱらいなっきゅんもドキリとして、その後苦笑いを浮かべた。
「……うっ……まぁ、ノロケって言っても片想いだけどね」
「あ…そうか、うん。帰れとかキレてすんません。夏希さん」
 いいか、あとちょっとだけ付き合ってやろうか。
「でもそれ辛くない?」
 じわりと夏希さんの目に涙が。
 え、涙…うわあぁああああ!! ごめんなさい! マジ泣きじゃん、ごめんなさい!
 いやぁしかし面倒な人だ、実に人間らしいじゃないか。
 ……とは思ったが、同時に僕は複雑な感情を抱いた。
 マコさんと一緒に暮らしていたからだろう。
 疲れて、混乱したマコさんがズタズタになってゆく様子が、僕の頭の中で再生されてしまうのだ。

 僕は、腹の底が気持ち悪くなるような話を、マコさん本人からも聞いたことがある。
 彼が退去する数日前に。
 やっぱりこれはただの逃げなのかも知れない、と、青い顔で言っていた。
「聖さん。本当は君が、怖くてたまらなかった」
「え? あぁ、僕が……そうか、男の人しか好きになれないから」
「男に追いかけられるのは、本当に怖いんだ。自分が壊されるような気がして」
 マコさんは自分をあざけるかのように笑った。
「どうせもうここには帰れないから、君にだけ話しておこう。俺が男に性欲を抱かれていたことを」
 僕は寒気がした!
「ばっ、馬鹿か! だからって刺激強いのを放り込むな!」
「え? 割と普通じゃないのか?」
 いや、いやだって、マコさんだよ? マコさんが……と、僕は震えた声で言うのだった。

 マコさんは、僕と同じ高校の出身だった。
 男ばかりだったが、その年は何故か、スカートを身に着けた生徒がひとりいた。
 とても可愛らしい子だったという。
 マコさんとさほど変わらぬ背丈、亜麻色の髪。
 メイクは意外と派手な方だったけど、実は眼差しは奥ゆかしいのだった。
 元々はいじめられていて、文化祭でそうするよう強要されていたのだが……本人がいざやってみると、とても眩しく輝いていた。
 嫌々だったはずなのに、結果的に一番その気になったのは本人だったらしい。
 その、一連の様子をそばで見ていたのがマコさんだった。
 マコさんはちょうど初めての彼女ができた頃で、年相応に悶々としていた。
 女の子のように可憐な友人なら、本当の女の子の気持ちも分かるのだろうかと、ちょくちょく相談をしていたのだそうだ。
 友人は、とっても親身になって答えてくれたという。
 他にも色々と喋るうち、物静かで、アニメやカードゲームが好きだったのが自分と似ているなぁと思って、マコさんは彼と親しくなった。
 その頃から、マコさんの周りで怖いことが起こり始める。
 彼女さんとのデート中、誰かの視線を感じるとか、ペンケースの鉛筆がなくなるとか、たたんで巾着袋にしまってあった体操着が、ぐちゃぐちゃになって戻されているとか。
 まさか、彼女がいることが周囲にバレてしまったのだろうか……それで、他の男子生徒が嫉妬深さのあまりに嫌がらせをしたのかと、マコさんは薄ら寒い思いを抱いた。
 こんなことなら彼女なんか作らず、大人しく二次元の世界に浸っていれば良かったのか、などと、可愛い友人に相談したこともあった。
 できれば、君も俺のことを養護してくれないだろうかとも。
 でも、そういうことではないのだ。
 状態がエスカレートすると、当初考えていたものとは別だったことにマコさんは戦慄した。
 嫉妬深さで嫌がらせ、までは正解だが、その先にあったのが同性からの恋愛感情、というよりも欲情だったのだ。
 その日、教科書には「君を抱きたい」という手書きのメモが挟まれていた。
 誰が犯人なのか、まさか君じゃあるまいな、とマコさんは、スカートの彼を問い詰めた。
 すると彼は、「僕がスカートだからといって、全部そこに結びつけるのはやめて」と一蹴したという。
 当時はちょうどオネエブームで、同性愛者というイメージだけでくくれないような人もテレビに出始めていた。
 だからマコさんは冷静になって、スカートの彼の言うことを受け入れたのだが……裏切られた。
 その、可愛かったはずの彼が、マコさんの体操着に顔を埋め、匂いを嗅いでいたのだから。
 真冬の寒い日なのに、彼は、誰もいない教室で熱っぽい息を吐いていた。
 スカートをめくって、手をねちっこく動かし……脚の間に、ポタポタと例のものをこぼしている様を、マコさんは見てしまったのだ。
 君に抱かれたい、ではなく、君を抱きたい、なのだ。
 あの走り書きの筆跡は……内心、ずっと信じたくなかったのだろうが……間違いなく、あの彼のものだ。
 彼は自らを男性とみなしていて、その上でマコさんを抱きたいのだ。
 ひどく気持ち悪くなって、マコさんはトイレで本当に嘔吐した。
 恐怖のあまり、涙が止まらなかったそうだ。
 スカートをめくったあの姿だけでもう、自分が犯されているような気がしたという。
 その記憶にもう、十年ほど怯えていた。
 でも、友人だった彼はどうしても嫌いになれなかった。
 アニメの話をしたかったし、またカードゲームもやりたかった。

「最近、もう一度会うことになってしまった。そしたら、高校生の時のことであいつを脅して、本当ならしたくもないようなキスまでして、じゃあ抱けばいいだろうと言ってしまった」
 恐怖感と後悔に瞳を潤ませ、半ば涙声になりながら、マコさんは言った。
「本当は……俺は、抱かれたくなんてないのに……ただ昔の、最初の頃の関係に戻りたかっただけなのに。こういう真似をされるの、君だったら嫌だよね?」
 僕はこくりとうなずいた。
「でもそれ、相手もルール違反ですから。当時いくら仲が良かったとしても、ゲイはノンケに手を出しちゃいけない。逆も同じ」
 内心憤りを覚えていたが、職場でのクセなのか、なかなか言葉に感情が乗らなかった。
「ノンケ……か」
 すると、マコさんは肩を震わせた。
 まさかこうなるとは思わなかった。
「それが、ずっとそうだと思ってきたが……本当はどうなのか、今じゃもう分からないんだ……」
「は?」
 いや、そんな……いわゆる両刀という意味なのかと聞くと、「そういう意味じゃない!」と一蹴された。
「それ以前の問題だって言ってるんだ」
 あぁ……なるほど、こう来たか。
 それは本当にしんどいだろうなぁと思った。
「君と琴子さんとの関係にも遠く及ばなかったんだよ。あれでも」
「そんな、僕だってそこまでじゃ」
「……何なの? それこそ君は嘘でもついているんじゃないの? あばずれと親密になるなんて」
 しかし、こればかりはこちらの胸がズキズキした。
 そっちがしんどいのも、その上で言った本音なのも分かるが、琴子さんを馬鹿にされるのは我慢ならなかった。
「……俺が女だったらそんなこと言わないクセに」
 マコさんは首を横に振った。
「多分……吐くよ。友達としての関わりでも、君がたとえ女性でも。羨ましいとかじゃないんだよ、気持ち悪いんだよ」
 彼の事態は深刻だった。
 琴子さんが好きなのは本当なのだろうが、トラウマが著しいあまりに生活に支障が出ているのだ。
「いいよ。今はそれで」
 僕は、話を聞く以外に何もできないから、気休めの言葉しか言えなかった。
「今度、スカートの彼みたいな輩がうちに来たら、あんたの代わりにぶっ飛ばすから」
 マコさんは少しだけ笑った。
 こんな自分でも傾聴の仕事くらいできただろうか、と、僕も口元が緩んだ。
 しかし、どん底に突き落とされた。
 自分は半人前の福祉の人間で、彼とはあくまでも他人でしかなくて、仕事上の関わりはないから、彼の傷などどうにもできないということを。
「なぁ、見るか?」
 彼は胸ポケットから何かをゴソゴソと出した。
 パスポートくらいのサイズで、薄っぺらくて、濃紺色の表紙。
 金色のイバラのマーク。
 中を開くと、マコさんの顔写真と、「3級」という文字など。
 僕は言葉を失い、青ざめた。
 でも……マコさんは何故か微笑んでいた。
 次第に、じっと見ているうちに、マコさんがこれを持つ意味が分かるような気がして、深い絶望から救われた。
「でも、それでも……いいです。そうなることを選んだのならきっと、例の彼だって報われます」
 マコさんが未来をどこかで信じていて、それを求めたというのなら。
 普通の無責任な人間なら、「友達に戻れるといいですね」などと返すだろう。
 僕は、喉元に出かかったのを封じた代わりにこう言った。
「マコさん。本当にその人と友達に戻りたいですか?」
「はい?」
「あのね、いいんですよ。その人のことが怖いから離れるっていうのは正しいですよ」
 学生時代のマコさんの気持ちは、僕だってまるっきり分からないわけじゃないのだ。
 学校という場で自らのことを明かすのは、誰にとってもあまりメリットがないということは経験していた。
「その、スカートの彼が世の中の少数派だから許してあげよう、とか思ってるんでしょう」
 僕の脳裏には、かつて想いを寄せていたつばきさんの姿がよぎった。
 彼は生真面目だった分、マコさんのような残酷な優しさを持たない人だった。
 今思えば、あの態度は当たり前だし、間違ってはいない。
「それはむしろ差別です。しなくていいです。そんな辛くて嘘っぽいことは背負わなくていい。だって僕、あなたに幸せになって欲しいから」
 マコさんはしばらく黙って、こちらを見ていた。
「……それさ、君にもそのまま返すよ。幸せになって欲しいっていう言葉を」
 マコさんは、僕の肩を軽く叩いた。

 そしていざ、加害者本人に遭遇すると、ぶっ飛ばすなんて到底無理だった。
 僕はマコさんじゃなかった、というのが結論だ。
「あぁ、いや……ごめんなさい。今の俺の言葉、なかったことにしてください」
 しかしまぁ、何を僕は悶々としているのか。
「ただ、あの……俺、他の人とは違うからっていうの、言おうとしてたっていうか、その……」
 しかし、それを含めたところで、夏希さんにモーションをかけられるというのは戸惑う。
 正直言って、散々乗せられていたのだ。
 夏希さんの制汗剤の香りとか、そういうものに。
 あの日、彼の首筋から感じた甘い香り……実は男性用のものである。
 それが意味するものを信じていたかった。
 その、信じる信じないとか、ジャッジするという考えは相当むごいだろう。
 それは琴子さんと一緒にいるのをからかわれた頃から、痛いくらいに分かっている。
「だってさ、正しいとか頑張りとか、優しさとか、それは長所だけどさ……それでむしろ自分の首絞めてるじゃない。だったら手放すのもアリなんスよ」
 しかしながら、僕はどうしてあと一歩に及ばないのか。
 その一歩、踏んでみたら案外平気なのではと思って、自分より少しだけ背の高い彼の頭を撫でてみた。
「でも、夏希さんがひたむきだっていうとこを否定したいわけじゃないんスよ。言葉にしづらいってだけで」
 確かに好きなのに、どうして胸が痛むのだろうと思った。
 これじゃあまるで、夏希さんのモノの考え方が歪んでいるとでも言っているようなものである。
 そういうわけじゃないのに。
 どんな言葉なら伝わるか、とても悩んだ。
 抱きしめて、頭を撫でるだけじゃまだ足りないのだ。
「……俺……好きな人には、幸せになって欲しいんです」
 そして、考え抜いた末にやっと出てきたのが、かつてマコさんに言ったことと同じ話であった。
「……聖」
「その、馬鹿になれないっていうか、真面目すぎるとこで苦しい思いをしているのなら、何ができますか? 俺って」
 夏希さんは涙を拭いて、こちらをじっと見つめた。
 真剣な眼差しだった。
「まず君が、馬鹿な男になってみせて」
 それは、実質的な告白とみなしていいのだろうか。
 そういえば僕は告白する側ばかりやっていて、こういったことは生まれて初めてだった。