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ギークス! 僕らの章(3) 百合は徒花だったこと
僕はあれから、つばきさんに対して気まずい思いを抱いていたが、それを紛らわすための友達ができた。
それはある日の放課後、廊下に落ちていた文庫本を拾ったからことから始まった。
表紙には、セーラー服姿の美人なお姉さんと、お揃いのセーラー服を着たあどけない少女のイラストが描いてあった。
表紙がこんな絵柄なので、こういうのはてっきり漫画かと思っていたが、中にはみっちり文章が書いてあって、所々に挿絵があった。
内容はよくよく読まなかった。
後から聞いたが、これは少女小説と呼ばれるジャンルのものだという。
もちろん世の中の男子高校生はそうそう読まないし、男子校に堂々と持ち込むこともそうそうやらない。
僕は持ち主のことを勝手に、アニメ系の美少女が好きな変態だと思い込んだ。
麗しの先輩の顔を真っ赤にさせた出来事を、棚に上げておいて。
「おーい! そこの君!」
「えっ」
「えーっと、姫さん! ん? 姫さん、で良かったか!? ちょうどいい!」
「えっ!?」
いやどうも!!
……僕とはふた回り、あるいはそれ以上は図体のデカイ男が来た。
(そこ、「聖の身長が低すぎるだけ」とか言わないように)
しかし、彼は何となく強そうなので、小説の持ち主が変に怒り狂って暴れても、守ってくれそうな気がするのだった。
「それ、恥ずかしながら俺の本なんだ」
「な!」
僕は心臓が飛び出そうになった。
「どうかした?」
「い、いや何でもない!」
あぁ嫌だな、特にこういう「パッと見健康そうなのに実はヤバそうな男」に対しては、ほどほどにバカでテンション高めのキャラ演じて、スルーすべきなのでは、などと、頭の中でぐるぐる考えた。
「まぁテンパってるとこ悪いけど、返してくれないかなぁ?」
「あばばばば!!!」
結果、変態をスルーするはずがこっちが変態になってしまった。
「あぁ……俺、体デカイし色黒だからね。怖いね」
「あぁあああうあうあう、はいすいませんでした、先輩? 先輩、返しますすんませんすんません!」
挙動不審ではあったが、謎の小説は何とか返すことができた。
「……そんな涙目にならなくても……そんなに、男子が百合を好きなのは怖くて駄目なのかね……」
「ゆ、り? お花の?」
「お花だ」
彼はちょこんとつぶらな、しかも妙に熱っぽい目で訴えた。
「ある意味、お花を超えるお花だ」
表紙のふたりを指さした……が、すぐに冷静になった。
「って、あぁ……やべぇ。つい、知らない人に百合を推しそうになった……」
「知らない人? でも僕の名字? 呼んだような」
そう、百合のお方は多分、新歓でのレイプ未遂のおかげでこっちを知っているのだ。
「うーん、そう。そうなんだ。隣のクラスにいて、ウェーイってやってて、見た目がまさにお姫様なのは遠巻きに見ていたので知ってたのだが」
「は? 隣? ってことはあなた年上じゃなかったのか」
「うん、そういえばまだ名前言ってなかったね。寺門渡です。よく渡ちゃんって言われます」
そう、彼こそが、のちに僕の両親を福祉サービスに繋いでくれた人……の息子さんで、僕を福祉職へ導いた人なのだ。
でもって、その彼はこんなに個性的だったというわけだ。
「姫宮……姫宮、聖です」
「マジ? マジで本名なんだね?」
あぁいるよねぇこの本名で珍しがったりときめいたりする人……いや、ときめく真似をする人はこいつが初めてだった。
涼しく応じようとしたのにこれは何。
この時の渡ちゃんの小さな目は、めちゃくちゃキラキラしていて怖かった。
「運命! マジ運命だし! 俺の人生大革命! ワッショイ!!」
しかも小躍りする! オタクの脳内丸出し!
「勝手に名前だけでワッショイすんな!」
「あぁごめんごめん」
こればっかりは本当に謎だった。
「あぁでも良かった。つばき君か、その知り合いにでも拾ってもらえたら良かったなぁって思ってたんだよ。他の人は絶対ドン引きするし、すっげぇ馬鹿にするから」
僕も十分ドン引きで苦笑したのだが。
「馬鹿にはしないよ」
「え? それ……社交辞令か?」
「んなわけあんめ」
と僕は返した。
「むしろちょっと羨ましい。そうやって、熱量で訴えたいくらいに好きになれるものがあるの」
改めて、麗しの少女たちを眺めた。
「この漫画っぽい絵の子たち、可愛くてキラキラしてるね。こういう風になれたらいいのに」
「お……ちょ、ちょっと待って?」
どうかしたのかと僕が聞くと、渡ちゃんはしばらく頭の中をぐるぐるさせていた。
「あぁ、うちの高校に昔、そういう人いたんだって! セーラーを着て、化粧して、ウィッグ着けて過ごしてたっていうの! めっちゃ可愛かったんだって!」
「わ、嘘」
これ本当だった。
実は、あの夏希さんのことを指しているのだというのが後で分かった。
「いや……だったら姫さん、こんな辛気臭いとこじゃなくて共学校行けば良かったんじゃないの、って気もするが……百合は、なければ作ればいいだけの話だ」
「なければ、作ればいい?」
「だから、姫さんは可愛くなればいい」
その言葉に、僕は根拠のない勇気をもらった。
「分かった! じゃあその本貸して! 全巻!」
「お、おぉ……何だか俺の思うものとやや違うが……応援しよう、色々と!」
つばきさんと気まずいのって、やっぱり僕が今の体のままだからなんじゃないか、と考えていたのだ。
だから、少しでも理想に近づけるのなら、それで、つばきさんが少しでも僕を許してくれるなら、と思っていたのだ。
少女小説に出てくる少女たちは、スカートのプリーツが乱れぬよう、上品にゆっくり歩く。
挨拶は「ごきげんよう」。
にこやかに笑みを浮かべ、何でもないような日常をひとつひとつ、大切に噛みしめる。
辛いことが起こっても、そこから愛おしさが生まれるのは、少女たちの深い絆があったから。
そういう世界が、自分のそばにもあって欲しかった。
だから僕は、これ以上肌を焼かないことにした。
ルージュやアイラインの引き方を覚えた。
渡ちゃんに頼んで、インターネットで女性の仕草について調べてもらった。
同級生にからかわれても負けなかった。
全ては、つばきさんを愛するための許しをもらうため。
「あぁ、君……何だか最近綺麗になったんじゃない? 寺門と何か企んでいるようだが」
梅雨を少し過ぎたくらいになると、つばきさんは僕をよく褒めるようになった。
「君のことは、どう扱えばいいのだろうか。そんな風に綺麗になられると、とても迷ってしまう」
「い、いやぁ。何だか恥ずかしいです」
「そうか、その本を読んでいる途中なんだね。あまり、ストーリーとかは追ったりできなかったが……彼女たちは、何だか愛おしいね」
そう言って、つばきさんは微笑んだ。
「……あの、つばきさん……もし、この本の世界に……憧れに、近づけたというなら……」
けれども、瞳の奥に動揺をにじませていた。
「聖さん」
次第に目を伏せて、苦しそうな声で言った。
「そうやって、私を惑わせてどうする?」
彼の一連の動作が、発言が、胸を焦がせるのだった。
「惑わせたいに決まってるじゃないですか」
自分自身を壊してでも、つばきさんのしなやかさを、正しさを、その素肌を奪いたかった。
どうしてだろう、この頃から僕は夜眠れなくなっていた。
思春期、では説明できないような、体の奥が甘くヒリヒリする感覚に悩まされた。
違う、そういうことじゃないのに、つばきさんが好きだっていうのは、そこまでしてつばきさんを奪いたいわけじゃなくて……と。
早く、女子制服を着て学校を歩きたかった。
決戦の日は少し蒸し暑かった。
でも、ウエストのくびれとか、長い黒髪とか、そのウィッグを着けた髪に映える白い肌とかが、とても愛おしいと思った。
教員は揃いも揃ってびっくりしていた。
「ごきげんよう」と声をかける僕の姿に、他の生徒は様々な反応を見せた。
生まれ変われた気がして嬉しかった。
一番嬉しかったのは、やっぱりつばきさんに褒められた時だった。
つばきさんは率直だから、褒めたいと思ったことはすぐに褒めるらしかったのだ。
「すごいね、その歩き方全然不自然じゃないね」
とか、
「この学校に、本物の女の子がいるみたい」
とか、嬉しかったはずだった。
なのに、僕はしばしば寝る時に泣いていた。
何かが思い通りにならない。
僕の何かが、壊れていってしまう。
壊れる前につばきさんが欲しい、と。
他に誰もいないスキに、つばきさんに告白して、唇を奪うまでにはそうかからなかった。
校舎の隅で、彼は嫌がる素振りを見せなかった。
長い指先でそっと、薄紅に染まった唇をなぞってくれた。
とても、とても大切に、頬をゆっくりとさすって、もう一度欲しいとねだってくれた。
その柔らかな唇は、何度塞いだか分からなかった。
でも……段々と頭が、体がおかしくなってしまって、長くは続けられなかった。
あの、綺麗な世界が欲しかったはずなのに。
秋の文化祭までの日々は、とても長く思えた。
つばきさんの他にも、僕のことを可愛いと褒めてくれる人が何人もいた。
でも、それじゃあ決して満たされなかった。
つばきさんのあの声を、あの眼差しを、あの唇を自分のものにできないのなら意味がなかった。
スカートを履く前、からかわれていたあの日々と対して変わらないのだ。
僕は何度、つばきさんと愛し合ったか。
しかし、生易しい感情なんかでは満足できなかった。
この、胸の奥が苦しくて、しびれてしまうこの感覚をどうにかできなければ。
それはきっと、つばきさんにとっては美しくも何ともなかったのだ。
分かっているから、苦しさのあまりに僕は泣いた。
許して、許して、と。
泣いている間にじっとりと濡らしていた下着のことを、つばきさんは怒らなかった。
脱がせたのち、スカートをめくって、僕の熱をそっと撫でた。
それだと今度はスカートが汚れてしまいそうで、スカートも脱いだ。
それでも胸の辺りがヒリヒリとしだすので、ブラウスのボタンを外した。
ブラジャーに汗が張り付いて嫌で、それも外した。
つばきさんが怒ることはなかったが、その時ばかりは褒めることもなかった。
ただ、泣きながら喘ぐしかなかった僕をずっと慰めていた。
もどかしくて、涙が止まらなかった。
悲しいを通り越した感情を、我慢することができなかった。
「どうして、それ以上をさせてくれないんですか」
「えっ!? 聖……」
「つばきさんだってそのシャツ脱いでよ。その体触らせてよ。手だけじゃなくて、口でしゃぶり尽くすような真似してみてよ……!」
つばきさんが戸惑うのも構わず、声を上げてつばきさんに抱きついた。
「何で? 何で『抱かせろ』って言わないんだよ!」
抱きつくとちょうど、お互いの局部がこすれてしまうような体勢だった。
「聖……君のそれは何なの……?」
つばきさんの声がうわずった。
「何故っ……そんな、徒花(あだばな)みたいな格好で言うの?」
「そうだよ、男だから」
僕は、胸の奥でくすぶる感情の正体を知った。
「可愛いと、つばきさんは褒めてくれるから……その、優しい世界が欲しかったという理由だけで、こんな真似をした」
「聖……」
「背は低いし、肩幅狭いし、自分のこと……俺って呼べないくらいひ弱だけど、それが可愛いってことになるのならいいって」
僕は自らを、可愛らしい女の子という枠に無理やり押し込んでいただけに過ぎなかったのだ。
大好きなつばきさんを、悲しませたくなかったから。
「でも、そんな真似したって、僕は本当は嫌だった。自分が壊れるようで」
僕は、自分自身で吐いたこの言葉がとてもショックだった。
「それ、つばきさんは分からなかったの……?」
つばきさんは唇を噛んだ。
「分かるけど、それでも、その濡れたものを押し付けられるのは嫌なんだ」
「お願いだから、そんなこと言わないで……お願い、だから……僕が可愛くなくても、愛してるって言ってよ……!」
相思相愛でないどころか、怯えているのは明らかなのに、つばきさんのその身は熱っぽかった。
「嫌いなんだ……その……オスの臭いがする、強引で気持ち悪いモノが」
彼にこう言われた瞬間、僕は絶望のさなかに放り込まれた。
熱はみるみるしおれた。
つばきさんの本心は……男性としての僕を気持ち悪いと言い放ったその理由は、経緯は、結局何なのかとうとう分からなかった。
このことは、のちに誰かによって職員に知らされた。
僕は数カ月に渡って謹慎処分を受けたが、何故退学にならないのかと憤る生徒もいた。
もしかしたら……なのだけど、肝心の、一番グロテスクとも取れる事実について誰も言わなかったからなのだろう。
あれは普通は一発で退学である。
僕はとうとう、清く美しい女性にはなれなかったのである。
でも、僕はとてもズルい人間だった。
同じ学校の友達が渡ちゃんぐらいしかいなくても、学業に精を出していれば生きていられた。
というか、死ねなかった。
一方で、好き同士でも無理なものは無理というのがあるのだろうというのは分かっていた。
好きな人のことを、好きだと言っていたかった。
相手がたとえ同性であっても。
その感情が一方的であるというのは、異性愛者がそうだという時よりも罪は重い。
少数派の中で目立った人間は、その代表だとみなされる。
世の中がそういう風にできているからだ。
僕は腹の中がひどく淀んで、とうとう治らなかった。
その被害をモロに受けたつばきさんは、東京にある本家に帰って、そこの高校へ行ってしまった。
琴子さんとの関わりがなかったら、スズキさんとの出会いがなかったら、僕は永遠に孤立していただろう。
というのも結局、しばらくはその場をしのいだけれど、高校は退学してしまった。
(僕が正社員になれないのはこの過ちのせいでもある)
渡ちゃんはひどく僕を心配した。
しかし僕は何度も彼に謝った。
女性らしさ、可愛らしさを、男性から好かれる武器として安易に使ってしまったこと。
それによって、つばきさんにひどい勘違いをさせてしまったこと。
僕はこの件で、自分が間違いなく男性であることと、その上で男性が好きだということを自覚したこと。
それが今バレてしまった以上、ここに居続けるのは辛いと言った。
渡ちゃんは、「好きな人を好きでいることは悪くないだろ」と慰めてくれた。
でもそこが問題なのではないのだ。
オスの臭いがする、強引で気持ち悪いもの。
差別的でありながら、あの言葉が僕だけに向けられていたのであるのならそれは、否定することなど無理だ。
この件の細かい部分……たとえばつばきさんの名前といったとこまでは話に出せなかった。
でも僕は、学校という閉ざされた空間で過ちを犯したことを、夏希さんに話した。
「本人のご両親からも、僕はとても嫌われることとなりました。親戚としての縁を切るように、他人として関わることすらないように、と」
あれから僕は、学校であえてカミングアウトをするのは危険だと思うようになった。
仮に女装などをしなくても、もしかしたら結末は変わらなかったのでは、と。
「自分で、自分のことが見えていなかった結果です」
夏希さんはしばらくの間、言葉を失っていた。
「……寂しいよね、そういうの。自分のこと、もっと冷静に説明できていたらって思うよね」
夏希さんは笑って言った。
「ひとりぼっちになるのって、寂しいよね」
その微笑みは本当に、寂しそうだった。
高校生だったあの時、誰かが具体的な解決策を教えてくれたなら、今また違った人生を送っていたかも知れない。
こんな人生、望んじゃいない。