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ギークス! 聖の章(2) 施設職員を辞めた日のこと

 田んぼと畑が広がるこの田舎で、友達もいなくて金もなくて、となると、暮らすのが辛い。
 冬の終わり、僕は非正規仕事のうちのひとつを辞めることになった。
 ちょっと精神的に参ってて、僕は人生を考え直さねばならなくなった。
 でも、実家はあってもないようなものだし、戻るわけにはいかないし、第一戻りたくなんかなかった。
 半ば意地で、この日もこのニートハウスに帰るのだった。
(ニートと言うが厳密には、非正規雇用で生きるオタクばっかりが集まるシェアハウスみたいなものである)
「ひじりさん、おかえりなさい」
 ひとりの女性が、玄関先で優しく声をかけてくれた。
 ヤバイな……涙流しながら、生きてて良かった!! とか言いそうになった。
 やっぱり自分はしばらく休まなきゃならないようだった。

「ことちゃんおなかすいた!」
 彼女は、桃の花が咲く頃に生まれたのだという。
 二十三歳にもなって自らを「ことちゃん」と呼ぶ人だったので、僕はわざとそれにはついて行かなかった。
 小さい頃からそうするよう人に言われていたからだった、というのもあるが。
 多分相当メンタルが死にそうだったと思うが、それでも営業スマイル的なもので応じた。
「ただいまです、琴子さん」
 桃花院(とうかいん)琴子さんは、ふわふわの髪、ふわふわの服のお嬢様。
 ややぼんやりのまったり系で、ややぽっちゃりしていて可愛い人で、僕より少々背が高いのが羨ましい。
 琴子さんは天使みたいな笑みを浮かべ、ひょいと米袋をかついでいた。
 そうです、お嬢様が変なシェアハウスで米袋です。
 お金持ちの家に生まれた娘さんが、経済的に安定しないオタクの男数人(とオタクじゃない僕に)もみくちゃにされているのだ……モミだけに。
 ちなみにガチニートは彼女しかいないし、彼女もニートというよりか別の言い方をされる方が多い。
「助かります。精米してきてくださったんですね」
「うん!」
 白米になった分軽いだろうが……元々三十キロあったブツだ、彼女はそれをひとりで持てるだけの筋力があるのが本当にありえん。
 でもまぁ、そういうとこが好きだ。
「しごと、クビになったのかい?」
 前言撤回! それをまったりしたノリで言うな! 普段はスルーできるが今は駄目だ!
「クビじゃありません!」
「へぇー」
 棒読みかよ、えらい正直だな!
「はぁ……まぁ、はい。実質クビです。別に悔しくないです。少しなら収入あるし、職のなさそうなオタクがゲームやってるの見ると、人って案外クズな方が死なない気がするし」
「クズ……そうか、あれはクズか」
「いや、ごめんなさい……あぁもう、俺寝ます」
「オトコと?」
「んなわけないでしょ!」
 うぅ、このやり取りすげぇぐったりする。
「……精神の余裕ないんで、このまま起きてるとあの人らを『このクズニート! 働け! 働けないならお前らの親の金よこせ!』と罵倒しかねませんから」
 それじゃあこっちの負けだった。
 世間一般の善良市民に流されると、勝ち負けとか優劣とかいう世界に殺されてしまう。
 福祉業界の人間として仕事にならないのだ。
「クズニートは……さすがにないか」
 共用の居間の床にバッグを置いて、僕は琴子さんと台所へ行った。
 そこでは、割烹着姿の住職さん(本当のお寺の住職じゃなくて、あだ名)が大根の下茹でをしていた。
「ごきげんよう」
「あぁ……そっか、ごきげんよう」
 あぁそうなんだ、今日はスケジュールが合わなくて、住職さんとはまだ「ごきげんよう」の挨拶をしていなかった。
「で、話戻しますがね? 琴子さん」
「おう」
「僕やっぱ辞めなきゃまずかったんスよ。ニートを罵倒するとか自分でもありえん。だってみんな働いてるし、そもそもニートがクズなわけじゃないし。ただの過剰な自虐だし」
「ひ、ひじりさん……」
 慣れた手つきで米を研ぐ琴子さんが、少しうろたえた。
「ひじりさん、あたまだいじょうぶ? あたま、なんてゆーか、つばきちゃんみたくなっててきもちわるい」
「そこであなたの弟の名前出しますか」
「ひじりさんは、もっとバカでよくね?」
「雑な助言いらねぇ」
 彼女は、少しうろたえた程度で大人しくなる娘さんではない。
「やだキモい。もっとあつくなれよ」
「え、ちょ!? そこで!?」
「おこめたべろっていうの、ことちゃんおぼえたよ!」
「よりによってそのネタ出すかよ!」
 思わず僕は笑いをこらえられなくしまった。
 しかも住職さんはそれ以上にウケていて、背中をブルブル震わせながら涙を拭いていた。
 これだから琴子さんは面白い。
 本当は面白いのに、胸の奥では何かがギシギシ言っていた。
「あーでも、本当にそうかも。頭がつばきかも」
「でしょ。ひじりさんは、ひじりさんでいた方がきもちわるくないよ」
 ちなみに「頭がつばき」とは、要するに真面目すぎることである。
「はい、ありがとうございます。前々から、職場が本当にキツくて……腕を噛まれた痕がまだ残ってるんですよね」
「どんなしょくばだ!」
「いやぁ……お金を盗んでおきながら、職員に注意されると逆ギレして腕に噛み付くような人がいる職場かなぁ……もっと理不尽なのが、それは利用者の様子を普段から見ないからそうなるんだって言い放つ職員かなぁ……」
「なるほどよくわからん」
「そうですか。じゃあ僕がセクハラとパワハラで嫌な思いをした、ぐらいでいいですよ。覚えとくのは」
 琴子さんは、とりあえずその場のノリでうなずいた。
「おぉ……」
「分かったらその米とぎを再開していただきたい」
 住職さんはまたウケたらしかった。
「あぁ……ひーさんってあんまり、まったりフリーターみたいなのって難しいんでしたっけね……生活保護じゃ車が持てないからって……」
 夕飯の匂いにつられたという、管理人のスズキさん(これもあだ名)が声をかけてきた。
「ごきげんよう。エライ、エライですよ。今までよく頑張りました」
「も、もう疲れました」
 スズキさんは基本、天使過ぎるプログラマーのおじさんである。
 よっぽどのことでない限りは何でも肯定してくれるし、何でも褒めてくれる。
 しかも何でも気づいてくれる。
 それは天使っていうかもはや……ペンギン?
「そうですね、少しお部屋でゆっくりなされてはどうですか? ご飯ができたらお呼びしますね」
「はい、ちょっと寝ます」
「いいのですよ、あなたが望んだことならば」
「あなたが、望んだ……」
 あぁ、どうしていつの間に、こんな風になってしまったのだろうと思ったら、僕は涙が止まらなかった。
「スズキさん、ずっと……一番、心配してくれてたのに……」
「いいのです。ひーさんはエライのです」
 うん、とうなずいて、遠慮なしに号泣した。
 スズキさんは、加齢臭のほんのりする体で、ビービー泣く僕のことを抱きしめた。
「『仕事辞めた記念日』のお祝いをしましょう。何も別に、あなた方までしょんぼりすることはないのです。これはある意味、とっても嬉しいことなのです」
 天使のような声で、スズキさんは琴子さんと住職さんにそう言った。
 満足するまで泣いた僕は、割とコロッと気分が変わって、自室の布団ですんなり寝たのだった。
 だった、が。
「って、ええー!?」
 夕飯だからと呼ばれると、そこにはまぁまぁガチのパーティーをやるおじさんが複数いた!
「いやぁどうも。白ご飯とおでんと、野草の天ぷら盛り合わせと、ビールは分かりますが……業務用のアイスケーキ、だと!?」
 琴子さんのメイドの、芽衣子さんがうなずく。
「これは琴子様が個人的に食べたいだけかも知れませんね」
「ぜってーそうでしょ」
 お嬢様は割とヘラヘラした笑いを浮かべていた。
「これを? 僕と琴子さんと芽衣子さんと住職さんとスズキさんご夫妻で?」
「まぁ、ツマさんはまだ仕事ですが、一応ケーキは取っといてありますよ」
 と、スズキさん。
 ツマさんは眩しい新妻なので、夫のスズキさんはデレデレしていた。
(ツマ、というのは今では「スズキさんの妻」の意味だが、元々は「刺し身のツマみたいな人だった」からだという)
「そっか……今日、住職さん泊まりに来てるせいか人多いなぁ。たまたまなんでしょうけど、何か嬉しいです」
「ツマさんももうすぐ帰ってきますよ、ふふっ」
「よかったねぇ、スズキさん」
 琴子さんはヘラヘラしていたが、目で「アイス食わせろ」と訴えていた。
「じゃあ、ありがたくいただこうじゃないですか。ひーさんの美しき『仕事辞めた記念日』に、乾杯!」
「かんぱーい!」
 特別な宴の始まりだった。
 みんなのアイスが溶けるとまずいので、おでんと交互に突っつくことにした。
「そういえば、パンダさんは今日もお元気そうでしたか? 最近近所でも見かけなくて」
 スズキさんは大根をハフハフしながら言った。
 こういう時にたまに出てくるのが、以前ここに住んでいた人のことだった。
「なんかあのひと、よるのほうがげんきっぽい」
「夜か……そうか、これで夜勤のパンダさんが僕より金稼いでるってことになるのか」
「いいのです、いいのです。ひーさんには今度、私がご飯おごりますよ」
「え、マジ? じゃあそしたら連れてってくださいよ、あの」
 ステーキ、と住職さんは調子のいいことを返すが、スズキさんはやんわりした声で、いいですよいいですよと言うので、彼の財布がちょっと心配になった。
「外食もいいですが、そろそろ……肉のプロが復活するそうですよ?」
「だれ?」
「ニワトリさんですよ」
「わーい! ニワトリさんがもうすぐかえってくるって!」
「え、マジで!? ニワトリさん! めっちゃ久しぶりに!? それすげぇ嬉しいことじゃないですか!」
「ニワトリさんのハンバーグがかえってくる」
 琴子さんの目がギラギラと光った。
 彼女の食い意地が半端ないのは、みんな知っていた。
「うわぁ! 良かったぁ、今度こそ本当に、リアルガチでうちに帰ってきてくれるんだね?」
「うん、たのしいね!」
「楽しい……そうですね、楽しいですね」
 なんだ、ニートハウスって楽しいじゃん。
 元々は挨拶もぼんやりしていたような人たちなのに。
 ごきげんようと声をかけるようになってからも、夕飯の時ぐらいしか喋らないなんていう時もあったのに。
 これだって、本当はめっちゃ仲良しだっていうわけじゃないんだけど、ちゃんと楽しいじゃないかと僕は思った。
 スズキさんが微笑んでみせた。
「いいのですよ。あなたが望んで手に入れた楽しさなのですから」
 あぁこれは、友達と呼ぶにはむしろ辛いじゃないか。
「あなた、最近迷っていらっしゃっていましたね? いいのです。分かります。単に親元にいたくないという理由だったら、普通のアパートの方がお安いでしょうに」
 退去するか否か、の話はスズキさんに前々からしていたが、そういう話でも彼はいつもニコニコしていた。
「もし、別な理由でここから旅立ちたいという日が来ましたら、どうぞ、望んだままの道へ行ってくださいね?」
「うん、けど……あと少しだけ、ここにいさせてくれませんか」
「いいですよ、いいのです」
 どうして、ここの人たちが優しいことを忘れていたのだろう。
 思い出せて良かった、本当に。