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『新勅撰和歌集』 の女性歌人

『新勅撰和歌集』に関して、女性歌人について少し追記。

新勅撰集きっての歌姫は?

『新勅撰和歌集』入集数の最も多い女性歌人は誰なのか。

その前に『新古今和歌集』をチェックしてみよう。

式子内親王(49)
俊成卿女(29)
二条院讃岐(16)
宮内卿(15)
相模(11)
殷富門院大輔(10)

()内は歌数、十首以上対象。

ああっ新古今だなぁ、という感じ。


さて『新勅撰和歌集』は?というと。

相模(18)
殷富門院大輔(15)
式子内親王(14)
和泉式部(14)
八条院高倉(13)
二条院讃岐(13)

え!いまさら相模?とびっくり。

うらみ侘ほさぬ袖だにある物を恋にくちなん名こそをしけれ

の人。

いや相模も『後拾遺和歌集』に五十首もとられた名歌人ではあるけれども。
なるほど、こういうことなんだな新勅撰和歌集は。とても新古今後の勅撰集とは思えない。

新勅撰集は決して新しいメンツがいないわけではないのだけど。
例えば実朝(25)、道家(25)、実氏(17)なんかは新顔。(政局絡みの人選でもあるが)

なのにどうして女性歌人は古いのか疑問だ。

それに相模>式子内親王なのも驚き。テイカカズラ伝説とは一体なんだったのか。(後人の勝手な妄想)

さて、とられた相模の歌

霞だに山路にしばし立ちとまれ過ぎにし春のかたみとも見む(夏巻頭)

五月雨はあかでぞ過ぐるほとゝぎす夜深く鳴きし初音ばかりに

いかにしてもの思ふ人の住みかには秋よりほかの里を尋ねむ

いつも猶ひまなき袖を神な月濡らしそふるは時雨なりけり

いかでかは天つ空にもかすむべき心のうちにはれぬ思ひを

明け方にいでにし月も入りぬらん猶中空の雲ぞみだるゝ

ながめつゝ月にたのむるあふことを雲ゐにてのみすぎぬべき哉

我も思ふ君もしのぶる秋の夜はかたみに風の音ぞ身にしむ

あと絶えて人もわけ来ぬ夏草のしげくもゝのを思ふころ哉

木の葉散る嵐の風の吹くころは涙さへこそ落ちまさりけれ

冬の夜を羽もかはさずあかすらん遠山鳥ぞよそにかなしき

かぞふれば年のをはりになりにけりわが身のはてぞいかゞかなしき(雑一巻軸)

浅茅原野原にあへる露よりもなほありがたき身をいかにせむ

恋ふれどもゆきもかへらぬいにしへに今はいかでかあはむとすらん

月影を心のうちに待つほどは上の空なるながめをぞする

霜こほる冬の川瀬にゐるをしの上下ものを思はずもがな

朝顔の花にやどれる露の身はのどかにものを思ふべきかは

いつとなく恋するがなる有度(うど)浜のうとくも人のなりまさるかな

というように夏巻頭や雑一巻軸を飾ったりもしている。

この機会に日本歌人選の『相模』を読んでみた。相模は、伊勢大輔から「最近音沙汰ないけど?」と送られてきた和歌に返歌した形跡がなかったりして

わりと筆不精であったのかもしれない

と書かれている。
これには少し親近感を覚えてしまった。

具定母

『新勅撰和歌集』に八首とられている謎の歌人〈具定母〉。
八首という入集数は多くはないが伊勢(7)や小町さん(6)よりも多い。

入集歌は

うき世をも秋の末葉の露の身におきどころなき袖の月影

流れての名をさへしのぶ思ひ川あはでも消えぬ瀬々のうたかた

くれなばとたのめても猶朝露のおきあへぬ床に消えぬべきかな

ほしわびぬ海人の刈藻にしほたれてわれからぬるゝ袖のうら波

なれなれてあきにあふぎをおく露の色もうらめしねやの月かげ

問へかしな浅茅吹きこす秋風にひとりくだくる露の枕を

めぐりあはむわがゝねごとの命だに心にかなふ春の暮かは

はらひかねくもるもかなし空の月つもれば老の秋の涙に

「袖の月影」「袖のうら波」「朝露のおきあへぬ床」「くだくる露の枕」、ちらほら本歌取りが見られるあたりに新古今の匂いがしないでもない。

そんな具定母って誰?
てか具定って誰?

実は、具定母の正体は‥‥

具定母(ともさだのはは)〔侍従ー〕八首。

生没年未詳。

承安元年頃〜建長四年以後、八〇余歳で没か。

中御門中納言家成男尾張守盛頼女。

母は藤原俊成女八条院三条。

祖父藤原俊成に養われる。

通称俊成卿女

(以下略)

ということで、俊成卿女でした☆(具定は通具との間の子)

定家さん‥‥俊成卿女と確執があったのかもしれないけど‥‥「俊成卿の子の座は譲らぬ」ということかもしれないけど‥‥

〈具定母〉は分かりにくいよ!

もしかすると当時の人も分かりにくいと思ったのでしょうか。その後の勅撰集では再び〈俊成卿女〉に戻ったのでした。

めでたしめでたし。


ちなみに見出し画像は狩野探幽筆宮内卿。宮内卿は新勅撰集に二首しか取られなくて寂しかった‥‥

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