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【短編小説】愛ちゃんの嬉野温泉物語

 ここは、佐賀県の嬉野温泉。
 この温泉内にある大きな旅館に就職した 愛ちゃんのお話です。 

 東の空がオレンジ色に染まり始める瞬間を私は一人で見つめていた。
 早朝に出勤し仕事の準備をしながら外の景色を見ていたけれど何かいいことが起きそうな予感がした。
「愛ちゃん、この書類もお願いね」
「はい、わかりました」
 こんな私を女将さんは信頼してくれている。私の名前は坂本愛。
 老舗旅館のフロント係を担当し、今年で入社二年目。今日は会議があって一日中、旅館は忙しく、私は一人でフロント業務を任された。
 館内の案内業務もしないといけない。お客様は朝、温泉に入ったり散歩をして朝食会場へ。
 その後、ゆっくりされてチェックアウトでフロントにやってくる。九時頃がピークかな。さっそくお客様が現れた。すると次々に並びあっという間に行列が。精算処理をしたり、お土産を宅配便で送る方もいる。忙しいけれど笑顔の対応を心がけている。私はハンバーガー屋のバイト経験もあるので忙しさには慣れているし、スマイルも忘れない。
「愛ちゃんは笑顔がいいね」
 先日も女将さんにほめてもらった。
 私は勉強が苦手だからこれぐらいしか取り柄がない。
 高校三年生のとき進路を真剣に悩み、進学は厳しかったので就職することに決めた。福岡の会社も考えたけれどやっぱりこの町が大好きだから地元で働くことにした。そしてこの旅館に就職することができた。
 嬉野温泉の歴史はかなり古い。昔、傷ついた鶴が温泉に入り元気になった。その様子を見た人が「あな、うれしや」と感動し「うれしや」が「うれしの」となった。というけれど本当かな。長崎街道の宿場町としても栄えて幕末には有名な人も訪れたみたいだ。
 片付けをしていたらロビーに一人背が高くてカッコいい外国人男性が立っていた。金髪で白い長袖シャツにジーパン。どこか見覚えあるお顔だけど。あっ、こっちに来た。
「ハーイ」
「えっと、ハロー。ハゥドゥユゥドゥ」
 外国人のお客様はにっこり笑ってくれた。
「ワタシノ、ナマエハ、マルコデス」
「マイネーム、イズ、愛です」
「ココノ、アンナイヲ、オネガイシマス」
 マルコという人は私に手を合わせてお辞儀をした。どうしよう。今日は私だけしかフロントにいない。事務所に内線電話を架けた。
「フロントは誰か見ておくから、愛ちゃん、お客様の案内をお願いね」
上司にやんわりと言われてしまった。もうやるしかないのだ。ドキドキしてしまう。
「では、どうぞこちらへ、プリーズ」
 私が先頭になって歩きはじめた。英語かな。フランス語かな。どっちもよくわからないけど。まずは足湯や中庭を案内する。「フットスパ」とか「ジャパニーズガーデン」と紹介したらマルコさんはにこやかにうなずいてくれた。
 それから隣にある本屋さんへ。
「えっと、ブックショップです」
「イエス、イエス」
 マルコさんは本を見ている。もしかしたらマルコポーロに関係ある人かな。東方見聞録だっけ。世界をあちこち旅をした人だ。
「ジャパン、マップ、マップ」
 私が九州と佐賀県の地図帳を紹介した。
「ノー、ノー、ノーサンキュー」
 あら。そんなに拒否しなくてもいいのに。地図は漢字ばかりだからかな。マルコさんは日本全国の風景写真集を購入し、そのまま隣のカフェへ移動した。
「カフェテリア。ドリンク、ブックOKです」
 カフェで本が読めますよって伝わったみたい。マルコさん何度も頷いている。どうやら私に飲物を買ってくれるらしい。せっかくだからアイスティをお願いした。マルコさんはグリーンティ。二人で並んで座り写真集を眺める。アイスティも美味しい。緊張していたので喉がカラカラだった。でも何かデートみたいな雰囲気になっていた。へへへ。
 最後にフロントへと戻ってきた。
「アリガトゴザイマス」
 マルコさんは別れ際に突然私をハグした。驚いたけれど少しだけ好きになりそうだった。
「バイバイ」
 マルコさんは大きく手を振って笑顔で帰っていった。私がポカンとしていると女将さんが慌ててフロントにやってきた。
「外国人の男性が来なかったかな」
 女将さん、珍しく必死の形相だ。
「私がご案内して、たった今帰りました」
「外務省から連絡があって幕末に日本に来たシーボルトさんの子孫の方だったのよ」
 シーボルトさん。
 またいつか会えるのかな。
 ハグされた瞬間の温もりを私はずっと忘れない。 
                (了)        

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