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私になるまで38

翌朝、手術着に着替えさせられ、時期が来るのを待つ。その間に先生が来て前の筋肉を引っ張って「これ気になるなぁ。これも切っていい?」と聞く。

それでなくてもドキドキしている心臓が飛び出そうになって、「えっ!」と私。少し先生苦笑いしながら「切った方がいいと思ったら切るから。手術室で待ってるな。」と言い残し出ていく。ここまで来たら肝を据えるしかない。

手術開始は8時。来るはずの両親がまだ来ない中、時間が来て、看護師に車椅子を押してもらい、手術室の前で待機。不安そうな私に「大丈夫!次起きたら終わってる。」と、背中を押された。

時間が来て、手術室の看護師にバトンタッチ。手術室の中に入っていく。ちょっと高めの手術台によじ登るように上がり寝かされ、身体中に色んなものを貼り付ける。点滴が始まると、眠くなった。うっすらとした意識の中「浅野さん」という声が霞んで行った。

その後どうなったのか分からない。

先生が「手を握って。」という声がする。確かにそう聞こえて右手、左手と握った。その後、再び記憶が薄れる。気がついたのは翌朝、ICUのベッドの上だった。まだ人口呼吸器を装着したままで何にも話せないまま…ここはどこ?私は生きてる?と思ってたら。麻酔科の先生が来て、「管抜くからあ〜って声出して!」

思い切りあ〜って発声すると同時に、管が抜けた。「ここはO病院のICUです。今日は何日か分かりますか?」と聞かれて、「うーん4月7日やね。」と答えた。多分手術が終わっても起きなかったのだろう。「そうですね。」笑顔で看護師が応じる。その後シャワーで下半身を洗って貰い、まだ尿道の管はそのままなため、十字帯のままだった。この時はまだ頭の回転が悪く、自分がどんな状態なのか把握出来てなかった。

何時間かしてから、病室に戻されて、ようやく気づく。頭が動かん!背中の支柱が頭と身体を固定しているのだから、当然なのだが、脳性麻痺の特性上、動かんけど動かそうと身体が勝手にしている。病室には両親が心配そうにして待っていた。「昨日は手術いつまで経っても終わらなくて、切った所の筋肉が収縮しようとして直接筋肉にボトックスしたんや。」との事だった。とりあえず、座薬で今は痛み少しマシな状態だった。朝8時から夜の8時まで…

大手術だったらしい。私は全然知らんけど…

そうしてるうちにOTの先生が来て、「どんな感じですか?」と聞く。「う〜ん重い!痛い。」というと「第一声がそれですか?」と笑う。こちらは笑い事ではなかったが、ボールを持って来てた先生は、ボールの方向に腕を動かして指示する。ちょっとベッドを起こしてもらって、ボールに手が届いた。どうやらちゃんと動くらしい。その晩は痛みがぎゅっとして唸ってしまった。隣に寝ていたおばちゃんが「手術して3日くらい個室にしてもらって欲しいねぇ。」という声が聞こえて来る。申し訳ない気持ちはあったが、声が出てしまう。数分後、前のベッドのおばちゃんが「大丈夫?」とカーテン越しに見に来た。「すみません。」と私。「気にせんでいいよ!」と言うて去る。

隣のおばちゃんに「すみませんって言うてたわ。」というとその後は何も言われなくなった。

翌日は、少し痛みが楽になる。隣のベッドのおばちゃんが「今日は爽やかな顔してるやん。」と笑いかける。

その翌日は、PTの先生が来て車椅子に数分乗る練習。これはもう死にそうだった。その翌日には歩行器で歩かされて痛みが再び復活。ぐじゅぐじゅ涙を流していたら先生が来た。「僕そんなにぐじゅぐじゅ言うてるの嫌いや。」と叱られる。「できるだけ早く僕の病院来てもらうようにするから。泣くな。」その後歩く練習は無くなったが、OTは北摂の病院に転院するまで続いた。転院は2週間後だった。福祉タクシーに寝たまま、乗せられ看護師達に見送られて、いざ先生の待つ病院へ。母は電車で先に病院に向かう。この時は父は下の子と家に帰っていた。

しかし、転院して待っていたのは過酷なリハビリだった。

今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。