![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125203811/rectangle_large_type_2_1e9c862eec70802d4a6abfcd6aa18202.jpg?width=1200)
エディンバラ暮らし|チャリティショップのある街
ある日、チャリティショップに救われる
夏の終わり、日本への帰国を控え、私は困っていた。持ち帰る予定の荷物がスーツケースに入りきらない。冬までの滞在予定を大幅に短縮したというのに、たった数ヶ月でいつの間に物が増えたのか?
(いやあなた、そりゃそうでしょうよ。という記事はこちら)
元々、帰国するときには処分する予定で持ってきた服や生活用品がある。別送品として日本に送るにも、手間とコストの割に合わないようなものだ。とはいえ明らかに使い古されたものならともかく、「本来まだ使える品」は捨てがたい。廃棄物処理にかかる人手と大好きなこの国の自然のことを考えると、余計なゴミを残していきたくない気持ちもあった。
そんなとき目に留まったのがチャリティショップだった。「まだ使えるけど不要になったもの」「新しい使い手を探しているもの」が集まる場所である。
生活を支えてくれた物がまた必要な誰かに繋がるのは、ありがたいことだ。
エディンバラではCancer Research UKやBritish Heart Foundationなど、売上金を難病治療の研究や貧困の救済などに充てているチャリティショップをたくさん見かける。それも車でしか行けないような郊外ではなく、人がたくさん行き交うハイストリートに軒を連ねている。これにはびっくりした。チャリティショップという存在が地域の真ん中に根付いているのだ。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125203841/picture_pc_a6e556d45690782fa3a514dccb00bed5.png?width=1200)
デザインが気に入ってよく着ていたけど、だんだんと雰囲気に合わなくなった服。足の甲の高さが合わないのに気づかず買ってしまい、結局あまり履けなかった靴。
私がいらないものを誰が引き取るのか?
そんな若干引け目のようなものも感じつつ、まあ断られたらそれは捨てるべきものだ。と、割り切る気持ちでカウンターに持っていくと、お店のスタッフはサンキュー!!とあっさり受け取ってくれた。こちらこそありがとうございます。
「フック付きのクリップとかあるんですが、そういうのも持ってきていいですか?」
「どんどん持ってきて!そういうのはバックヤードでも使えるし。ありがとー!」
これらのチャリティショップは、売却ではなく寄附が基本である。でも無表情で「〇〇円です」とお金を頂かずとも、ただ「ありがとー!」と言われるだけでこんなに嬉しいことがあるんだ。
※在庫過多で受け付けてないこともあるから、持ち込む前に要確認。
ところで、チャリティショップは買い物で訪れても楽しい。
マルハナバチの模様が入ったキッチン小物や年代物のティーセット、派手な色のドレスは、私がもっと長く住んでいたら手に取っていたかもしれない。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125198859/picture_pc_fceb84d4456b551b610500025a7447dc.jpg?width=1200)
ある日、紫色のキルト帽を見つけた。お土産屋さんをいくつか回っても、欲しいイメージに近いものはなく諦めかけていたところだった。
”ラム毛、メイドイン・スコットランド、19.5ポンド"・・・ふむふむ。
・・・ふむふむじゃないわよ。スーツケースに入らないからここに来たのでは?
まあ大丈夫、これくらいなら折り畳んで持ち帰れる。
またものを増やすのかと半ば呆れながらレジに持っていくと、「よく見つけたね!」と言われた。
「こういう色のをずっと探してて。お土産屋さんとかも見たんですけど」
「とってもいい品だよ、それ」
イギリスの階層意識とチャリティショップの役割
イギリスの現代アーティストGrayson Perryの展覧会で、”We Are What We Buy(私たちは自分が買ったものでできている)“という作品を見かけた。イギリスの人々がなにを立派だと考え、なにをみすぼらしいと感じるのか。社会の価値観を覗き見する気持ちで興味深く眺めた。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125199457/picture_pc_f4df498cc47edd7bf5f841b6c8a854a2.jpg?width=1200)
例えば
ジャスパーコンランのハイファッションを身にまとい、メルセデスベンツに乗り、ロンドンのSW1地区(ビッグベン辺りの中心地)に住む人。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125200243/picture_pc_68be1c82fa4c98dbcff5cb8b35f3e680.jpg?width=1200)
また例えば
OXFAM(チャリティショップの一つ)で服を買い、(車は買えないので)ラレーの自転車に乗り、ロンドンE15地区(ストラトフォードという、貧困と犯罪のイメージがある街)に住む人。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125200323/picture_pc_83124b59041e83f234b1cf4577558be7.jpg?width=1200)
チャリティショップが「貧しそうな人」を表す記号になってるのには若干の寂しさを感じるが、生活に困っている人の選択肢になるという側面は確かに、こういったお店が果たす大きな役割の一つだろう。
とはいえ、チャリティショップを必要とするのは新品を買えない人ばかりだろうか?「敢えて新品じゃなくていい」という買い手や「まだ使えるのに捨てたくない」という売り手だっているだろう。あるいはたまに、「なんとなく人とひとつふたつ言葉を交わしたい」という気持ちが満たされることもある。
いまは物質的にはこれまでにない豊かな時代だと言われている。その反面、物(ないし資源)は無尽蔵にあるという勘違いや、作り手やそれを届ける人の透明化が起こるというのはよく聞く話だ。
チャリティショップは、社会活動を支援するものであることは大前提として、その経済圏は、ものの価値を再認識したりローカルの触れ合いや助け合いを感じられる場所でもあるのかもしれない。ある意味、現代における貴重品と言えるのかもと思った。