感謝と日常
感謝の教え
私、幼少期(保育園〜小学校低学年)の頃からあり得ないくらい運が悪い子で、食卓ではよく両親や兄に笑われていました。例を挙げると、友達7、8人くらいと密集しながら街角で話していたのに私の帽子にだけダイレクトで鳥の糞をかまされるくらいの凶運です。他にも、努力して遂に学年でトップ5に入るほど足が速くなったのに、6年ほど夢見てた念願の代表リレーにじゃんけんで負けてなれなかったり。大事な日に限って雨が降ったりと。もう無茶苦茶です。でもそれは「不運なだけ」であり不幸とは思いませんでした。それどころかその話を笑い合える家族がいて、友達もいたのでむしろ幸せ者だったのかもしれません。ところで世界一の不運男の座は私として、『世界で最も不幸な人間』は誰だと思いますか。
私は絶対に『感謝できない人、感謝の心のない人』だと思います。「ありがとう」というだけで心が温まる、人とのつながりを感じる。「ありがとう」と言われるだけで救われた気持ちになる、喜んでもらえてよかったと思える。きっとそれは日本語に限りません。このような感謝の心すらない人はきっと全てが当たり前だと思い込み、それに対して不平不満恨みつらみばかりを言い、可哀想ですが心が豊かになることはないでしょう。
世界一の不運男の私は過去に野球チームに所属していて、沢山『感謝』について、指導者や先輩方から学びました。「グローブや野球道具を使って野球ができるのは親が頑張って働いて、尚且つ私に『頑張ってほしい』と思い買ってくれたから。指導を受けて野球が上手くなれるのは、コーチや監督が貴重な時間を私たちのために割いてくれているから。期待してくれているから。グラウンドを使えるのはそんな沢山の人の協力があるから。」
「この滅多にない貴重な協力だったり期待に対して『ありがたい』と思うのは人として当然のことで、またそれは声に出して伝えるべきだ。」と厳しくも愛を込めて教わりました。10年弱経った今でも、私の生き方の基盤になっています。
ありがとうの語源
そんな感謝の時に言う「ありがとう」の5文字。自利利他を引き起こす魔法の言葉ですが、語源はなんと仏教のお釈迦さまのお話からです。
盲亀浮木(もうきふぼく)の例えというお話があります。
滅多にないと言うその表現から、仏教では人間に生まれると言うことは大変喜ぶべきことであるとされています。そしてその『有り難き』が崩れて『ありがとう』となりました。
そんな喜ばしくも有り難い事に。また誰かの優しさや思いやりへ。素直に真心で「ありがとう」と言えるような温かい心でこれからも有りたいと思いました。どんなに言っても及ぶことはないのですから!
これを読んでくれている貴方も、そして応援してくれている方々にも。皆さんありがとう!!