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人間が嫌いな人間

経験の世界

 何が起きても、誰も彼も、これを読んでいる貴方も「人間」です。何を当たり前なことを、そう思うかもしれませんが時に勘違いを起こしてしまう人間もこの世の中いるそうで、気の毒でなりませんので提言しました。

 「今、誰かにとって、私は嫌いな人かもしれない。そしていつか誰かの嫌いな人になるのかもしれない。」私はそう自覚しながら、なるべく善く生きていますが、私にとって嫌いな人は何を考えて生きているのでしょうか。

 人それぞれ「嫌い」になるそのトリガーやキャパシティーは違います。そしてその表現方法も違います。「嫌い」という言葉を嫌う人もいるからでしょうか。それが優しさなのかそれとも怒りなのかは分かりませんが。

 長い人生の中で色々な人間に出逢います。自分にとって「良い人」「悪い人」「仲のいい人」「関係のない人」など。過ぎてみれば感じる、そんな巡り合わせの運命(良くも悪くも)に自分が中心軸なのだと人は思います。経験の中が世界の全てだと思うからです。

上の空

 物事や他人をどう見てもどう感じても、自分自身が人間であることには変わりないのに、人間を嫌いという状態に陥る人がいます。無理もありません。他人を敬うことも優しさも忘れてしまった憐れさが、私の愛したい人間と同じであると思いたくもないからです。
でもそれが人間というのなら、人間であることをやめてしまいたい。もしくは人間を信じることをやめてしまいたい、そう思ってしまうはずです。

ですが、どんなに酷くとも、どんなに美しくとも、皆等しく人間なのだそうです。

どうあるべきなのか

 美しい人や素晴らしい人は賞賛を受ける一方、賞賛無くそして周りからどうとも見られずにいると、自分が人間か否かわからずにいる人も少なからずいることでしょう。そんな人間を非難するのも愛せるのも、また人間ができることです。

 救えるのならば、変えられるのならば、唾を吐いたあの人間とは違う素晴らしい人間であるべきではないか、と思いました。私自信が、私の嫌いな人にとって嫌いな人であるべきとは限らないようです。

 ですが、私たちは人間です。「我慢」という叡智を携えていますが、同時に「我慢の限界」も持ち合わせています。我慢することは「ゴミを絨毯の下に隠すこと」と一緒です。いずれ見えてしまうし、いずれ溢れるでしょう。

 無理は禁物です。少しくらい人に迷惑かけて我儘に生きるのも、人間にできることですから。自分を含めて、人間を愛せるようにずっと生きていたいです。

 涼しい1週間になりますように。

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