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わたし自伝①

割引あり

これは、世に出すかどうか10年以上迷い続けており、綴っている今もなおどうしようか悩んでいる

わたしの人生についてのお話。

そもそも関心のある人がどれくらいいるかもわからないし、わたしがこんなにどうしようどうしようと悩んだところで誰も興味ないかもしれないですが…

でも逆に、そのくらいの気持ちでなら発信できるかもしれない。そんな気持ちで綴っています。


幼少期→両親離婚→結婚出産→消えた○千万→いくつかの病気→離婚出産→現在に至るまで


わたしの人生。
節目の年なので記録しようかなと思った次第です。


*幼少期のわたし*

わたしが生まれたのは茨城県の田舎町。
三人兄弟の三男の父と、二人兄妹の母のもとへ第一子として誕生。
名前は「いずみ」か「あさみ」で迷ったらしい。父の若かりし頃、小林麻美さんという歌手がすごく人気だったそうで、そこからいただいたのだとか。

ちなみに、わたしが生まれた年、女の子の名前でいちばん多いのが「麻美」です🥹

いま思えば『麻雀美しい』と書いて『麻美』だなんて、なんとも素敵な名前をいただいているじゃないか。

父の実家は工場経営をしており、祖父母、叔父夫妻、わたしの家と三軒が同じ敷地にあるという、都内ではなかなかないような広大な土地で暮らしていました。

しかし我が家はとにかく引っ越しが多く、この家が建つ小学校低学年のときまでに5回の引っ越し、その後も紆余曲折あり、現在に至るまでにした引っ越しの回数は16回!!いま数えてみたら自分でも驚きだ(  Д ) ⊙ ⊙


父は背が高く口もうまく、筋肉質でちょっと(結構)悪そうな顔をしていて、それはそれはおモテになるタイプの男性でした。若かりし頃やんちゃしていたこともあり、母はそれはそれは苦労していたのだろうと子供ながらに思ったものです。


イメージです

一方の母は、当時にしては珍しいいわゆる「父子家庭」で育った下町っこ。祖母は母が三歳くらいの頃に女性のガンで他界しており、わたしはおろか母もあまり記憶にないくらいしか思い出がないそうです。
そこからは家族三人プラス祖父の弟の四人で暮らしていたそう。

余談ですが、現在は母子家庭、父子家庭とは言わず「ひとり親」という呼称が一般的になっています。


幼少期の頃のわたしについてはざっくりとだけ。

3,750gで生まれたときからずーーーーっと背の高かったわたし。幼稚園の頃から父にゴルフの英才教育を受け、庭でも練習ができる環境。
父がいる間はよくゴルフを教えこまれ、わたしのことを将来はプロゴルファーにしたいと言っていました⛳️

従順な幼少期だったわたしは、見栄っ張りな父とでかけると無理やりジェットコースターに乗せられたり、回転寿司でわさびは食べられないと知っていても「抜きでなんて頼めるか!」とわさびの入ったお寿司を無理やり食べさせられ、今日は休みなさいと言われれば学校も休み、ゴルフのノルマをこなす日々。(だから今でもお寿司はわさび抜きなのかもしれないなあ…)

小5のとき。165cmくらいかな??

しかし、父は定期的にしばらく帰ってこなくなります。それが何故だったのか…それはここに記しはしませんが、、、まあ、父はやんちゃさんだったのでしょう。

この、父のいない隙、小学五年の時にわたしはミニバスを始めたのです🏀

これまで、スイミングにエレクトーンにそろばんに習字に華道にゴルフとたくさんやってきましたが、自分の意思だけで「やりたい!」と始めたのはこのバスケットが初めてでした。

バスケットにとにかくどハマりしたわたし。
両親は当然のように反対(ゴルフやらせたいわけですから)、何も手伝わないからね!と言われたので練習や試合で持っていくお弁当は自分で作り、朝も自分で起き、月謝はおばあちゃんに交渉して出してもらうことにし、毎月おばあちゃんのところにもらいに行きました。
これを続けることでなんとか母からはバスケを続けることを認めてもらうことができました。

※尚、母は途中からはわたしより熱狂的なバスケファンに生まれ変わります笑

しかし父は最後までわたしがゴルフをやめてバスケをはじめたことを許してはくれず、小中約5年間で父がわたしの試合を観に来てくれたのはたったの1回だけでした。両親に反抗なんていっっっっさいしなかったわたしの初めての反抗だったので、未だに申し訳ないなという気持ちはあります。

ここまでふわーっと幼少期について綴ってきましたが、なぜわたしは両親にこれまで反抗したことがなかったのか。


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