足守商家 藤田千年治邸 2
千年治じいさんは三百町歩を持ち県下で三番目という大地主藤田家の分家に生まれ、元は酒屋だったそうだ。大正十年の米騒動が足守にもおよび、民衆の襲撃にあったという。
庶民には無縁の酒屋ということで標的になったらしい。
今でも黒光りのする大黒柱にその時ナタを打ち下ろされた傷が残っている。その一件がおじいさんの人生観を変えたらしく、酒屋をやめて醤油屋をはじめそうだ。
おじいさんは大の食道楽、魚屋へ行って自分で魚を見立て、畑では当時まだ珍しかったアスパラガスやブロッコリーを育て、北海道から大納言小豆を取りよせ栗を炊いて栗羊羹を作り、讃岐三盆糖で錦玉羹を作る。
全国の銘菓を取り寄せては独断と偏見で批評三昧、いわく
「何といっても最高の菓子は金沢森八の長生殿、あの色といい風味といい最高じゃ、あと富山の月世界、うまいのは佐賀の卵そうめん、生菓子なら森八の千歳、竹生の羽二重餅、山口の舌鼓、カステラなら長崎の福砂屋云々」
美味しいものに目のない人だった。
椿を何種類も植え、カスミソウを畑で作り、自ら花を生け、古い道具を見つけては磨き上げ、娘たちの嫁入り衣装も自ら選ぶ。
こよなく生活を愛する人だった。
中でもご自慢は、手造りの奈良漬けを昭和天皇に食べていただいたこと、陛下の岡山での定宿「後楽」の主人と仲良くなり、陛下のお膳に載せてもらったというのだ。『夢』という銘までつけていた。
去年の秋、市から「工事にかかる前に、必要なものを取りに来てください」との連絡があり、叔父や叔母たちと出かけた。着物や夥しい布類、、古びた食器、変わった瓶や缶、台所用品、網代編みのざる、おひつ、革製のトランク、時代がかった時計・・・昭和以前の生活がそのままそこにあり、
手に取ると面白いものばかりだ。
パッチワークにでも使えたらと布類を手あたり次第にもらって来た。
その着物や布もきれいにほどいて洗い張りをし、職人芸ともいえるほどの繕いがしてあった。
かなりの資産があったことで道具類は上等で洗練されていて、義母の嫁入り衣装の振袖は五十年たった今、娘が愛用している。
茶道具なども相当なものを集めていたらしく、人と話をする時も横に置いた備前の大壺をなでながらという人だった。しかしそのほとんどは六人いた娘の嫁入り支度と、叔父の開業資金に綺麗さっぱり消えてしまったそうだ。
一生まめに働きたくさんの子供を育て、食べるもの着るものにこだわり、美しいものを愛し毎日の生活を大切にした人生。
富を蓄えることも名誉をおいかけることもせず、
自分のお気に入りの墓石まで作って八十五歳の生涯を閉じた。
見事というほかない。
おじいさんが亡くなってちょうど20年たった今年8月、あの古い家が
『足守商家藤田千年治邸』としてよみがえった。
開館式の日、案内を受けて行ってみると、折れかかった柱も、壊れた屋根も崩れかけた壁も、きれいに修理されて、まぶしいほど明るくなっていた。
ちょっと明るすぎるみたいだなと、思いながら見て回っていると、見覚えのある市役所の建築課の人が私を見つけて
「あなたのあの電話がきっかけでした。あの電話がなければ、ここはできていませんでした。こういうプロジェクトは、いろいろな条件が整わないとなかなか完成しません。
本当にいいタイミングが重なりました」と
ひとつの仕事をなしとげた後の上気した面持ちで話しかけてきた。
頑固一徹で有名だった千年治じいさん、自分の家がこういう形になったことをどう思っているだろうか。財産も名誉も残さなかったけれど『藤田千年治』という名前だけは残ったのだ。
ひとつの生き方を私たちに思い出させながら。
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