山椿 1
1992年、父が86歳で亡くなりました。
その時、私は48歳。
不器用で、まじめで、武骨で、無口で、面白みのない父でした。
その20年前に、父は自作の短歌集を作って、子供近親者に配っていました。
私も貰ったのですが、当時は子育てに忙しくて、ろくに読んでいませんでした。
亡くなってからはじめてゆっくり目をとおし、私たちが知らなかった父の姿を知ることができました。
これはその頃に書いたエッセイです。
山椿 (1)
去年の5月、井上医院の駐車場を広げる工事で、一本の椿の木を植え替えた。
「今は植え替えに向かない時期でしてねえ、つくかどうか・・・」
植木屋さんは頼りないことを言う。
「この椿はね、ここに住み始めた25年前、父が山から掘って来て、こんなヒョロヒョロの苗を植えてくれたの。15年目くらいから花が咲きだして、今ではこんなに大きくなって・・・」
「そりゃあ大事にせにゃいけません。つけばいいですがなあ」
この木のそばで、子供たちはままごと遊びをし、砂遊びをし、三輪車を乗りまわした。キャッチボールをし、喧嘩をし、子犬とじゃれあった。
案の定、草木がどんどん成長するときに、根を切られ居場所を移された藪椿は、夏の太陽に照らされて茶色に変色し、はらはらと葉を落とし続けた。
やっぱり無理だったのだろうか・・・
それでもどこかで命がつながったらしい。少しずつ勢いをとりもどし新しい芽を吹き、よく見ると赤いつぼみを5個つけている。
よかったあ、何とかついてくれたんだ、いつまでも育ってほしい。私たちを見守ってほしい。
父が『山椿』という歌集を出したのは、20年も前の事だ。150ページほどの小さな本で、6百首ばかりの自作の短歌をのせている。古希を前にして、若いころから好きで書きためていたものを一冊にまとめて、近親者に配ったのだ。
その頃私は子育ての真っ最中で毎日幼い三人の子供と格闘をしていた。父の歌集をもらってもパラパラと目を通しただけで、じっくり読むこともなかった。あとがきを見ると昭和50年12月となっている。
「長い旅路をさすらった末、郷里の地に帰って来て、余生を送っています。tただただ黙々と教壇生活50年を歩んできたにすぎません。短歌は本来の道ではなく、師について学んだこともなく、全く独りよがりにすぎません。とるに足らぬ拙いものですが、その時々の捨てがたい気持ちがします」とあとがきにある。
すこやかな今朝の体を確かめて
カブに跨る齢となりぬ
働くを当然として疑わず
梅雨茜さす山畑を打つ
拾われて車に乗ればわんぱくの
昔を語る教え子なりし
その頃父は定年退職した後、私立高校の数学の教師をしていた。休みの日は田仕事、山仕事があり、老いの身には結構きつかったに違いない。
天候を気づかいつつもさわりなく
今年の稲を刈り治めたり
気になりし豆のこなしを思い立つ
小春日和の休日の朝
4人の娘はそれぞれに嫁ぎ、ひとり息子の兄に孫娘が生まれ、シンガポールに赴任していた。
生まれくる孫にあやかる植林の
小さき苗を丹念に植う
沢に下り雪解け水を桶に汲み
植樹整地の鎌研がんとす
逞しき荒れ野の萱を薙ぎ払い
今日一日は山に暮れたり
山に来て山に憩えばほのぼのと
山のかおりのなつかしきかな
老いの力を傾けて1700本のヒノキの苗を植えたとある。
こんな時、山からの帰り道で小さな藪椿の実生の苗をみつけて、丁寧に掘り起こし我が家の庭に植えてくれたに違いない。
誕生日ケーキの上に灯したる
灯を吹き消して照れてる千枝さん
ノーベル賞玲於奈の君にあやかりて
呱々の産声高らかにきく
この頃は二人でよく旅行もしていた。
私があげた杉本苑子の『西国巡拝記』を手掛かりにして西国36ケ寺も巡っていたようだ。
最初母は「お寺巡りなんて面白くない」と渋っていたようだが、行って見ると立派な大きなお寺に魅せられて、弾みがついたようだ。
「お父さんは階段が登れないから、私が御朱印帳を二冊持って駆け上がって貰ってきてあげるのよ」と楽しそうに話していた。
その頃から父は心臓が悪かったのかもしれない。
高山の屋台の御車をおさめたる
み庫の屋根のいやたかきかも
阿蘇の田も圃場整備を進めたり
変貌の農に打ちかたんため
伏し拝む伊勢の大神我が生の
六十年はす巳におわりぬ
老人会結成によせてと、こんな文を残している。
「老人が老人として尊敬されるのは 生涯死ぬまで正義を行ふ 死ぬまで愛に生きる 死ぬまで義務を行う 死ぬまで仕事を貫く その姿である 死ぬまで自分の主義主張を貫く それが尊い 斃れて止むの心意気 ああ」
いつも静かで淡々として寡黙な父はこんなロマンチストだったとは!
心の中にはこんなに情熱的な思いを秘めていたとは!
お父さん! 教育者なのに伝え方が下手だよ
死んでから私たちはお父さんの本当の思いを知るなんて!
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