これまで10年 これから10年

  
           (2019,3,20)
 
 このところ暇を見つけては畑の草取りをしている。我が畑は玉ねぎが四畝ほど植わっていて、そのうち一畝は隣の奥さんが使っている。あとは採り残った大根が数本、栄養不良の菜っ葉が黄色い花を咲かせている。草はどんどん伸びそうな勢いだ。最近ほどよく雨が降るので、土が湿り気を帯びて、とても抜きやすい。
 この畑は夫がたいそう気に入って、植え替えのたびにバーク堆肥やし尿処理場の土地改良堆肥を入れていたので、とてもいい土になっている。表面はかたそうでも、三つ子鍬を入れるとさっくりと真っ黒な土が顔を出す。昔は大嫌いだった草取りが、今では楽しい作業になっている。
 
 とはいうものの、いつまでできることやら。今でもしゃがむのが苦痛なので、お風呂の腰掛を持ち出してそれに座って草取り、無様なことだ。5歳年上の隣の奥さん、とても元気な人だったが、最近「疲れる」を連発するようになった。
 私も多く見積もって、あと十年くらいだろう。あと十年、いったいどんな風になっていくのだろう。
そういえば、とても明るくて前向きだった11歳上の姉も、最近あまり元気がない。
 
 草を抜きながら、とりとめのないことに思いを巡らす。十年ってどれ位の長さなのだろう。一番わかりやすい感覚は、自分の十年前のことを思い出すことかもしれない。
 十年前、平成21年、私64歳、夫は70歳でまだ現役で働いていた。子供たちも三十代で仕事や子育てに夢中だった。
 畑の隅に植えた杏の木が、ピンクの可愛い花をいっぱいつけている。十年ということは、この花を十回見ることだなあ。
 
 十年前のことが何も思い出せなくて、日記帳を取りだして見た。
 リーマンショックで世界同時株安、1月にはオバマ大統領が就任した。就任式のテレビ中継、彼の演説も思い出した。5月シャクナゲのころに中学校の同級生と那岐山に登っている。
 エアロビクスにも週4回くらい通っている。若いイケメンコーチのダンスエアロが難しくて、出来栄えを70点とか85点とか、自己採点しているのが面白い。ステップもボクササイズもやっていた。
 そして飼い犬のロッキーが 体調不良で介護が必要になり5月に亡くなった。私の北海道での同窓会に出かける前日だった。
 仕事はもちろん、経理全般を担当していた。受付の子が急に辞めて、受付を手伝いながらの人探しが、大変だった。
 
 この頃は小林白汀先生の習字教室にも通っていた。狂言もやっていた。
そして「史記」から「三国志」へ、中国の歴史に夢中になった。〈日本人〉を考えることも深めていきたい、と今と同じ思いを書き留めている。本当にあきれるほど、いろいろなことに夢中になっていた。
私の百花繚乱の時代だった。
 
 そんな生活が突如変わったのは、平成23年8月、いきなり次男が開業する、後を継ぐと言い出したのだ。
 これまでも井上医院をこの先どうするか、夫婦で話し合うことはあった。同年輩の産婦人科の先生はほとんどが開業をやめて、あるいはお産をやめている。主人はいまでも数は少ないもののお産をしていて、相変わらず休みのない生活を送っている。
 夫は息子に後を継がせる気はないと言う。
「こんなしんどい仕事を息子にさせるわけにはいかん、これから一人で産科の開業なんてありえん」と言っていた。
 
 夫は息子の申し出にすぐには賛成しなかった。場所がよくないだの、職員が集まらないだのと、あまのじゃくな事を云う。
 息子は38歳。夫がアキレス腱を切って「周りに迷惑をかけられん」と開業に踏み切った時と同じ年だ。
 本人がよくよく考えて決断したことだからと、私が説得した。
内心はうれしいはずなのに。
 
 それからは波乱万丈の数年間だった。
病室のリフォーム、内科の先生にやめてもらい、一階の全面改装と毎週の建築打合せ。
 リフォーム工事の最中の10月、夫は健診で引っかかり、間質性肺炎と診断された。原因もわからず、したがって治療法も対症療法しかない自己免疫疾患だ。
 治療法を探りながら様子を見ていた12月に、肺塞栓を起こして入院した。幸い発見が早くて事なきを得たが、いのちに関わる病気だ。
翌年1月には肺癌が見つかった。同じ時期に重篤な肺の病気が三つも見つかったことになる。
間質性肺炎があるため手術や放射線治療はできず、化学療法が決まった。
 その間一貫して私たちを支えてくれたのは呼吸器内科を専門とする長男だった。最初のひと言は「間質性肺炎?まさか!」
病気について詳しい説明をしてくれ、国立病院の主治医の先生と相談しながら、治療法が決まった。
 
 2月に工事の引き渡しがあった翌日入院して抗がん剤治療が始まった。
 次男は有給休暇を取って、井上医院と大学病院を掛け持ち、4月1日から正式に井上医院勤務となった。まさに綱渡りである。
 抗がん剤治療は6月まで続いた。調子のよい日は井上医院に行って、新しくなったⅡ診で患者さんを待つ。家でも台所に立って、カレーやポテトサラダを作ってくれる。
 しかし体調の変化、気分の上下は激しくて、病院での新しいやり方への不満、今まですべて自分の思い通りにしてきたのに、細かいことまで納得がいかない。
 夫は全責任を負って、すべてを自分で決めてきた。38年間無事故でやってきたという自負がある。
 次男は我が家では末っ子、いつまでも末っ子なのだ。
 私は主人の顔色を伺い、息子をそれとなく諭し、頭を抱えた。
世代交代がこんなにも難しいとは思ってもみなかった。我が家だけはうまくいくと信じていたのに。
事業承継問題をテーマに仕事をしている娘に、毎日のように電話をかけて愚痴をこぼした。
 
 今までの古い看護婦さんたちは一人二人と去っていき、新しい人が入ったものの、一癖二癖ある人ばかり。実にいろいろな事件が起こり、毎日のように問題が起こる。いっときも気が許せない。希望をもって井上医院を継いでくれた息子の憔悴した顔を見るのが一番つらかった。
 仮採用したものの虚言癖がある看護師さんと話し合いをした翌日、私はヘルペスになった。かなり強烈で、完治まで三週間かかった。私は意を決して、寝床の中から次男のお嫁さんに、井上医院を手伝ってほしいと電話をした。開業医は孤独であること、妻の支えが何より大切なこと、夫婦で一緒に仕事をするのは生きがいにもなること。
「今年一年私がすることをそばで見ていてください、二年目は二人で一緒にしましょう。三年目はあなたがしてください、私はそばでサポートします」
 
 少しずつ新しい人が入ってきたが、新しいシステムを作るのが何より大変であった。私自身医療の内容について知識はない。ただ意見を聞くだけだ。仕事の分担などでもめにもめる。今までは主人の「鶴の一声」ですべて決まっていたが、次男はそういうタイプではない。
主人は体調が万全でない。相談するとよけい問題がこじれる。

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