足守商家 藤田千年治邸 1
1991年、足守商家藤田千年治邸が、岡山市の民族資料館として、一般公開されて、その頃書いたものです。
ここは夫の母の実家で、夫はこの家が大好きでした。
それから10年契約が何度も更改され、叔父も夫も亡くなりました。
公開について私も少しかかわったので、
古い家がこういう形で残った事、よかったと思っています。
足守商家藤田千年治邸 1
夫の母の実家のある足守は、岡山市の中心部から西北に十五キロほど行ったところで、秀吉の妻ねねの兄、木下家定を初代藩主とする小さな城下だ。
城はなく陣屋跡が今も残っている。
その十四代最後の藩主が、明治の歌人木下利玄である。
小さいながら山紫水明、豊かで磨き抜かれた家並みが残っていて、今も静かなたたずまいを見せている。
昭和四十年代祖父と続いて祖母が亡くなり、その家は空き家のままだった。
しかし二十年ほどたって、大きな台風がやって来て屋根の一部が壊れてしまった。
当主である叔父は困って夫に相談に来た。
古くて大きな家、醤油を作っていたので醸造部分もあり、補修するのは大変なお金がかかる。
まして住むあてのない家に大金を使うことはできない。
壊すのもまた大変なお金がかかるだろう。
その家は足守の街の中ほどの角地にあって、休日になると写真愛好家が写真を撮りに来る。それをブロック塀で囲っては、残念この上ない。
何かよい方法はないものかと、私は岡山市の観光振興課や教育委員会に電話をしてみた。
それがタイミングよく、ナショナルトラストという団体が足守の古い家並み調査をしていて、そのレポートが上がっていたところだった。
岡山市の観光課でもその調査に関心を持っていたらしく、すぐに話が通じた。
それからとんとん拍子、といってもどういう形で残すのか。
持ち主である叔父との合意、市議会の議決と予算の裏付けなど、半年ほどの時間がかかったが、結局叔父の所有権は残したまま岡山市に十年契約で貸して賃料は固定資産税に相当、
岡山市は修理して民俗資料館として一般開放することに決まった。
私がはじめて千年治おじいさんに会ったのはまだ結婚前で、夫に連れられて古い大きな家に行った。重い大きな戸を開けると広い土間があり、薄暗いその壁ぎわ、天井から吊り下げられた大きな竹の籠に、一抱えもあるほどのカスミソウが活けてあった。
その不思議なほの明るい白さに目が釘づけになった。
醤油の濃いにおいが漂ってきて、夫は土間の一隅に据えられた背丈ほどもある大きな樽を指して
「底の方においしいモロミがまだ残っているんだ」と教えてくれた。
すでに八十歳を超えてツルのように痩せて面長の品の良いおじいさんと、小柄でふくよか、背中が丸くなってますます小さくなったおばあさんが出てきて
「おう、よう来た、よう来た」と喜んでくれた。
一男六女の子福者のこの夫婦は
「七人の子供が夫婦そろうて達者で一人も欠けとらん、これが何よりの自慢じゃ」と目を細めていた。その長女が夫の母である。
夫はおじいさんの惣領孫で、戦時中は一人で預けられていたこともあり、ことのほか可愛がられていたようだ。夫も暇があると、おじいさんの好物「魚勝の祭すし」や「常盤木のカステラ」を買って訪ねて行くのだった。
私たちの結婚式の時のこと、神前で神主さんの祝詞の途中に、不思議な声が流れてきた。おじいさんが謡の「高砂」をBGMのように歌いだしたのだった。
披露宴の席でも杖を突きながら、ひな壇に出てきて、夫の手の上に私の手を重ねて、その上に自分の手を置き、「高砂」を謡ってくれた。
その皺だらけの手から、おじいさんの暖かさがじかに伝わってきて、おじいさんの喜びの深さが、ひしひしと感じられた。
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