遠い記憶
(2018)
一年間だけ教壇に立ったことがある。
大阪府立S工業高校、1967年のことである。
環状線森ノ宮駅から東へバスで20分。あたりは小さな町工場が並ぶ住宅街で、味気ない灰色の町だった。
私は地図をたよりに学校を探し当て、一つ大きな息を吐き、意を決して校門をくぐった。
始業式で壇上に上がって紹介された。黙って一礼したが、600人の生徒が一瞬どよめいたような気がした。機械工業科と電子工学科で全員男子である。
1年生3クラスと2年生1クラスの数学を担当、1年生では困らなかったが、2年生は手に負えないやんちゃなクラスだった。
嘗められないように、ことさらに毅然とした態度を取り、一週間で全員の名前を覚えた。
数学に何とか興味を持ってもらおうと、いろいろ工夫を凝らした。
昼休みに「質問タイム」を設けて、空いた部屋で待機したり、時には生徒を誘って柳生街道を一緒に歩いた。
「せんせ、なんでこんな問題せな、あきませんの?」
「就職したら役に立つでしょ」
「たたへん、たたへん」
先生方の中には、「どうせあいつら、勉強せんのやから」と、はじめからやる気のない人もいた。
そんな雰囲気の中で、むきになって、これが最後の学生生活になる彼らに、何か確かなものをつかんでほしい、まじめに取り組むことが、きっと何かにつながることを分かってほしいと、できる限りのことをした。
頭の中は、授業のこと、生徒のこと、学校のことでいっぱいだった。
昨年のある日、京都でのスクーリングから帰宅すると、郵便受けに名刺が挟まっている。
不審に思って見ると、表は、島津製作所 安岡豊とあり、裏にメモ書きで
「安藤あさみ先生、覚えていますか。49年前S工業高校でお世話になった安岡です。出張で岡山にきました。今度は連絡してから伺います」とある。
まさか、あの時の生徒! びっくりしてしまった。
会社にファックスして連絡を取り、次のスクーリングの時、京都で会った。
49年ぶりの再会。当時の生徒の中に今も年賀状を交わしている人が何人かいて、その一人に会うことがあり、私の住所を聞いたらしい。
お互いのその後のことを話し合った。私は退職後すぐに結婚して子供が3人生まれ、32歳の時夫が産婦人科医院を開業して、その夫を一年前に亡くしたこと。
安岡君は数学が好きになって、成績も上がり、島津製作所を受けて見事合格、定年を過ぎた今も務めているという。
遥か遠い若かりし頃、たった1年だったけれど、夢中で過ごした日々のことがよみがえってきた。あんなに一生懸命だったけれど、誰にもそのことを話したことはない。誰も知らない。
自分の中で当然のこととして、薄れかけた遠い記憶になって収まっていたもの。49年たった今、それを証明してくれる人が現れるとは!
どんな努力もいつか、それは半世紀かもしれないけれど、いつか報われることを、彼に教わった。
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