短編小説「うろんなふたり」
1
受付の女が、やけに親切だった。
名前を告げると、立ち上がり、手鏡をくれ、ネクタイの緩みを直してくれた。栗田は、前髪を整え、サイドを耳にかけた。その女は、栗田の上着に洋服クリーナーを一通り掛け終わると、栗田を所長室へと通した。女は履歴書のコピーを取る必要があると言った。渡す時に見た桜色の爪が、いかにもデスクワークの人間らしいと栗田は思った。
栗田が大学院を中退したのは、2年前の冬だった。災禍のため実家からの仕送りが途絶え、奨学金も栗田にとっては借金にしか思えなかったからだ。彼は一人、思案した。彼に帰るところは無かった。大晦日、栗田はスーパーへ刺身を買いに行った。マグロのさくを平造りにしてもらいながら、次は手に職の時代だと栗田は思い至った。
ある夜、栗田は賄いの雑炊を食べていた。どの局も選挙速報番組を放映していたが、とある地方放送局は、古い探偵映画を放映していた。汚職事件を題材にした作品だった。このタイミングで、どんなスポンサーが番組についているのだろうと思い、かけ続けていると高齢者向けの滋養強壮食品と探偵学校のコマーシャルが流れてきた。幼いころ病弱だった栗田にとって、本来「タフガイ」への憧れは強迫観念めいて、彼の内にあるはずのものだった。学費は安かった。眼鏡を曇らせている場合ではない。明日、学校から資料を取り寄せ、眼科でレーシックを受けることから始めよう。栗田は、そう思った。
探偵学校は、通信課程と実地実習に分かれており、週2回の通学と自習時間が確保できれば、卒業後、グループ会社への就職が見込めるとのことだった。資質が何よりも大切なだけなのではないかと栗田は思ったが、向いていなかったら習い事だったと思えばそれで済む話だと自分に言い聞かせた。栗田は、郊外電車の通学定期券区間を一駅減らして走ることにした。川沿いの砂利道で転倒し、傷の手当ても分からない自分を恥じた。「彼」ならば、外れた関節も自分ではめ治せ、路面電車を相手に走り込んで、いつか追いつけるはず……「彼」ならば。
秋、依然として修了証書の意味は分かりかねたが、求人票を閲覧していると有給インターンシップ生を受け入れている事業所があった。栗田は腕時計を買い、面接に備えた。
2
所長は、
「探偵失格」
と栗田の肩を叩いて大笑いした。所長は目玉クリップで挟まれた事務所の名刺を左手に持っていた。それが栗田の後ろ襟から摘み取られたのは明らかだった。裏側に、
”なにそのレゴみたいな髪型!”
と書かれていた。
それは、栗田と同世代の人間ならば1度は遊んだことのある原色のブロック遊びだ。受付の女の仕業だろう。栗田は思った。
さらに、ネクタイの裏には、ボタン電池大の盗聴器が仕掛けられていた。栗田は、決して色仕掛けというわけではない彼女の精錬なやり口に慄いた。
「こちら萩生田さん」
所長は、受付にいた女を紹介した。
「”おぎ”じゃないから」
萩生田は言った。
「あちら経理の八木さん」
所長が示す事務机には、ハンサムな壮年男性が収まっていた。
所長は、帰り際、八木は昔探偵だったと言った。面も良く背格好にも恵まれると目立ちすぎて探偵には向かないのだそうだ。所長に言わせると、萩生田は美人だが、幸が薄そうだから許容範囲なのだと言った。目立たなければなんでも結構、と栗田は理容室のチケットを渡された。採用とのことだった。
最初の依頼は、逃げた家猫の行方捜しだった。八木が栗田の指導係を務めた。萩生田は、ネコアレルギーとのことだった。捜索3日目、手ぶらで事務所へ帰って来た栗田に向かって萩生田は、
「ひとんちのベランダで今頃インコでも食べてるんじゃない」
と言った。所長が、萩生田をなだめていると、直帰したはずの八木が当の猫を抱えてやって来た。熱帯魚店で、ガラス越しにウーパールーパーを突いて遊んでいたそうだ。
「魚屋で可愛がられてました、さすが賢いネコですね」
八木は、依頼主に爽やかな笑顔を見せた。
依頼主は報酬の3割分、多く置いて行った。所長は、チップを三分割して栗田と八木、萩生田に配当した。萩生田は、
「言いたいことがあったら八木さんに言ってください」
と言った。所長は、解決祝いに3人をファミリーレストランへと連れて行った。八木は酒が飲めず、所長は非喫煙者、萩生田は体調管理の為に、毎食カロリー計算を欠かさないとのことだった。メニュー表には、カロリーだけではなく、野菜の産地までもが記載されていた。
所長は、エスカルゴを一皿食べ終えると、
「エスカルゴってフランス料理だよな」
と呟いた。
「フォカッチャはイタリア料理ですよ、あとティラミスも」
八木が言った。八木は、ドリンクバーで萩生田とはしゃいで作ったメロンソーダのカルピス割りを飲んでいた。彼は、エスプレッソはおろかコーヒーすら飲めないのだった。とても不便だろうと栗田は思った。
八木は、依頼主の前でも出されたコーヒーを躊躇せずに断った。それがその都度、なぜか相手を和ませるのだった。特に女性の場合は、よく効いた。
3
インターンシップが終盤にさしかかかった頃、熟年女性がひとり事務所を訪ねてきた。内気に振る舞う所長を不審に思った栗田は依頼人の素性を調べた。検索エンジンに名前を入れるだけで、彼女が伝説的ポルノ映画女優で、今は映像作家の夫Kの作品のプロデューサーをしていることが分かった。夜野紫陽花。それが、かつての彼女の名前だった。彼女は、戸籍名名義の直近のインタビュー記事で、日本でもインティマシー・コーディネーターの普及に努めたいと語っていた。それは、撮影現場に同行して、性的なシーンにおける俳優の人権保護を担う仕事とのことだった。
彼女は、離婚手続きに必要なので夫の不倫の確証を押さえたいと言った。
「何もかも手放して温室で蘭を育てる、それが私の余生です」
その楚々とした佇まいに、萩生田までもが感銘を受けた様子だった。夫Kは、週末に仕事で高松へ発つとのことだった。所長は、担当に萩生田と栗田を指名した。八木が家を空け、パートナーに疑われるのは可哀想だと所長は言った。所長は、夕食に炭水化物摂らずに痩せたばかりだと言う萩生田に、
「こんなもっさいとっつぁん坊や、誰も萩生田さんの彼氏だと思わないから安心しなさい」
と言った。
「小麦のアレルギーはない」
萩生田が栗田へ尋ねた。栗田は経費削減の為、うどんばかり食わされるのだろうと覚悟した。
4
初めは、素うどんだった。地方空港での出待ちは気楽だった。鉄道の乗り入れが無く、羽田発の便の到着時刻に合わせて玄関口を一つ見張ればよく、片方がレンタカーで待機していればそれで事足りた。夫Kらの搭乗を見送った夜野夫人から連絡が入った。夫Kらの到着時刻は、10時55分とのことだった。
「私はANAに掛けてたんだけどな、レゴは」
栗田は、ツーブロックに髪を切った後もレゴと呼ばれ続けていた。
「僕もANAだと思いました」
「そこはJALだろ」
「僕、実際掛けてないので」
「500円あげるから、何か食べてきな」
栗田は、お年玉の使い道を親に勝手に決められた子供のような心地になったが、単品メニューで一番高い肉うどんが500円だったので持ち直した。
夫Kらは、到着時刻通りに現れた。ロビーから出てきた夫Kらを追って出て来た萩生田を助手席に乗せた栗田は言った。
「僕、オートマ限定なんですよ」
萩生田は黙って一旦外へ出て、運転席に座り直した。萩生田は、怒っても呆れてもいなかった。単に職能として、自分の計算違いを猛省していたのだった。
夫Kらはタクシー、栗田と萩生田はレンタカー。栗田は、カメラを操作しながら淡い経済格差を感じたが、追われるよりも追う身の自由を強く思った。
5
一行は、田園地帯の国道を直進し続けた。
家電量販店、回転寿司屋、ホームセンター……
栗田は、高松に来たのは初めてにも関わらず、郷愁を覚えずには居られなかった。栗田は、幼い頃、家族に毎週末連れて行かれたショッピングモールを思い出した。2階建てで、立体駐車場を備え、日用品売り場とは別に、吹き抜けを囲うように専門店が並んでいた。その中でも、栗田のお気に入りは天窓を持つ遊技場だった。そこは階を区切られておらず、足漕ぎ式の空中散歩遊具のレールが敷かれ、レースゲームや、シューティングゲームの他に、1度に12人乗乗ることが出来る回転木馬が置かれていた。栗田には5歳離れた妹が居り、両親の買い物中に子守を頼まれた栗田は常に妹をペガサスに乗せると、自分は馬に跨がるのが恥ずかしく思え、天蓋付きの乳母車を模した席に音楽が止むまで身を潜め続けた。
ある日曜日、栗田は、妹へ1人でメリーゴーラウンドに乗るよう仕向けた。妹は、周囲の助けを得ていつもの席へ座った。栗田は前夜、衛星放送で流れていた刑事映画の中で、遊園地での追走の果て、高所から回転木馬に落下した犯人が一角獣に刺さるのを観たのだった。栗田は、はしゃぐ妹に青褪めた。
6
アーバン、シーサイド、貴婦人、さくらんぼ、Bon-Bon、珊瑚礁。
全て空港からの沿道にあったホテルの名前だ。
通りがかる度、一旦停止し、萩生田は栗田に写真を撮らせた。
ロココ調のファサード、吹き荒ぶ噴水群。入り口にそびえ立つ”自由の女神”は、左手に松明、右手に黄色い表紙の電話帳を持っていた。
右折する夫K一行に続くと、交通違反となるため、萩生田は栗田を歩道へ降ろし、廻り道して合流することにした。栗田は、駐車場に空きがある事を萩生田に伝え、自分は他の出入り口を確認することにした。
夫Kらと、すれ違いに栗田がフロントへ向かうと、背中に署名入りのTシャツを着た従業員が書かれたての色紙を壁に掛けていた。タクシーにサイン。全くの公だった。小芝居をするまでも無かった。
市街地へ入ると、出演者を高級旅館で降ろし、夫Kはビジネスホテルへと入っていった。萩生田は、オートマ車を手配した。栗田は、作成した報告書を送付した。目を動かすだけで、うどん屋が3軒見えた。明日、夫Kらは、うどん学校を取材することになっている。生地を踏む脚や、捏ねる上半身の動作を行為中の映像に挿入するのだろうか。栗田は、何をもって不倫とされるのか、分からなくなってしまった。婚姻も撮影にも契約書がある。順番が争点なのだろうか。しかし、その点は重要ではないのだ。ただ素材が必要なだけなのだ。栗田は、自分たちがリアリティーショーの歯車に過ぎないのかもしれないと思い始めた。どこか近くに夜野夫人が待機していたら痛快だ。栗田は、ミラー越しに車体へ歩み寄ってくる人物を見とめた。八木だった。そのゆとりある足の運びは洗練されており、左腕に掛けた買い物袋1つで八木の風体が損なわれることは無かった。
「どうだ、続けるか」
後部座席に乗り込んできた八木が言った。
栗田は、
「一応」
と返した。萩生田は、夕食を摂りに出た。栗田が居る前で、差し入れのホットドッグに食いつきながら猥談、というわけにはいかなかった。うどん屋の注文カウンターで萩生田は、今夜は、海老天も竹輪も選ばず、太刀魚はいっそう怪しく、平たいアジフライならば許せると思った。萩生田は、1軒でも多く巡ろうと麺と出汁の両方が冷えたものに決めた。糖の吸収を穏やかにするためには……萩生田は思った。それが、萩生田の休息法の一つだった。
7
翌日、栗田と萩生田は、1日で異なるうどんを5玉食した。八木は、車内に待機した。夫Kらは、うどん学校を出ると幾つかのうどん屋を巡った。交通手段が限られ、予測よりも閑散とした店も幾つかあった。不審がられないよう八木は敢えて栗田と萩生田に観光客を気取らせ、彼らは凌いだ。
それは2軒目の、こんにゃく天を出す店でのことだった。
夫Kは、出演者が添え物を順次吸い込み、噛みちぎる模様を動画に撮っていた。夫Kは首を傾げ、
「じゃ、次はれろれろしてください」
と言った。夫Kらのペースに合わせてうどんを食べ進めていた栗田と萩生田は、お互いの好奇心の度合いを探り合い、タイミングが被らないよう慮って夫Kらを見た。ふたりは幾度か繰り返した。ふたりが確認したのは、出演者が舌に麺を巻きつけたのを自分に確認させてから、それを飲み込ませている夫Kの姿だった。
「そうですね、口あいて、ごっくん、そうですね」
夫Kは、出演者の動作を褒めも貶しもせずに言った。それが、彼の決め台詞なのだろうかと栗田は思った。
車へ戻る手前、萩生田が、
「うどん食べるの分かってて普通、白いの着なくない」
と言った。出演者は、白いシャツを着ていた。見逃した胸元のしみは、栗田に寄せては引き返すロマンスとポルノグラフィーのあわいを綱渡りする心地を味わせた。
「そうですね」
栗田は返した。
8
発着ロビーで待機する栗田と萩生田のもとへ、八木が高松土産をひと通り買い揃えてやって来た。八木は、萩生田へ和三盆と、讃岐うどんの揚げ菓子「揚げぴっぴ」を差し入れた。
「さすが、分かってるじゃないですか」
萩生田は、比較的無垢に喜んだ。
「レゴ、領収書きっていいぞ」
八木は言った。栗田が店からロビーへと戻る手前、一席分あけて並ぶ八木と萩生田は各々、手元で情報収集をしていた。もう仕事は終わったのだ。
羽田で夫Kらと3人を出迎えたのは、所長でも夜野夫人でもなかった。到着時刻直近目掛けて、夫Kらの既存作品の出荷停止を求め、夜野夫人を含む過去作の出演者が周到な手続きの上、告発会見を開いたのだった。
八木と萩生田は各々、京浜急行で直帰すると所長へ言った。栗田は、所長とモノレールへ乗った。終電間際の湾岸地帯を車体は静かに走行した。
栗田の胸元のプッシュ通知が鳴った。ネットバンキングへの給与振込みの知らせだった。栗田は、所長の横顔を見つめた。それは、どのような感情も示唆していなかった。
男も惚れる男という慣用句を栗田は思い出した。所長は、運河沿いにある
”ポンジュース”
の巨大なネオンサインを背景に、
「不満か」
と言った。栗田は、
「いいえ」
と微笑んだ。
9
オフィス街と、雑居ビル群を隔てる交差点の角にその店はあった。外壁の2面を成す広いガラス窓が、熱帯魚用に誂えられた水槽を思わせた。店内の多くを占める木製カウンターでは、白い厨房服を着た中年の男が、お玉を握っていた。横断歩道を渡り終えると、醤油と味噌と白葱の混ざった香りが漂ってきた。先客が3人居た。明るい色調の髪を右分けにした赤いドレスの女が一人、両肘をついて料理人を歓談していた。店内には銀色の給水タンクが二つあり、各々出汁が適切な温度に保たれているのだろうと栗田は思った。うどん屋にも何でも屋がいるのだと栗田は気がついた。
所長は白味噌、栗田は辛口赤味噌の煮込みうどんを注文した。
栗田は、遠く鳴り続ける架空のクラクションを思った。そこでは、夫Kは報道陣とのカーチェイスの末、絶命し、夜野夫人が重症を負った出演者の世話を引き受けるのだ。
出演者は、一連の救命処置のあと、頭部の怪我の処置に入る。折った骨を固定する杭が上下の顎に穿たれワイヤーで垂直的に固定されるだろう。栗田は、バイクで自損事故を起こした友人を世話したことがある。しばらくの間、奥歯の奥から硬めに茹でたうどんを1本ずつ吸い込むのを手伝ったのだった。
やがて所長が、
「この玉子、茹で過ぎじゃないか」
と言った。
「そうかもしれないですね」
栗田は、窓の外を見た。押しボタン式の信号機が、赤く青く灯っていた。
Fin
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?