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ラリアット


絹枝は、娘の亜子の復帰戦に居合わせて、新たに単語をひとつ覚えた。ラリアット。それは亜子が、悪玉の頸部に喰らわせた技芸の形。ロープをたわませ戻る相手を迎え打つ亜子の確固とした直腕。幾度も観ていた動きのはずだ。組み伏せられた相手は、もがくということをしない。呼吸の主導権を貸し渡す恐怖も感じさせない。実直に、決定打の回避を試みている。観客は、心配はせずに応援をする。必ず苦しくはあるだろう。そして、その表情を観客に決して見逃させはしない。しかし、より激しく痛むのは顔ではなく可動域を超えたどこか、関節のあたり。皆分かっている。
亜子は今、出産後初めての舞台に上がっている。序盤、亜子は挨拶に、と右手を差し出した。それは強く握られ、亜子は、一辺のロープへと放たれた。リング中央方向へ跳ね返され、仕掛けられるラリアット。それは、ヒールとしての正しい振る舞いだ。悪役は、仰向けの亜子の足首を掴み逆さに頭から落とす。即座に悪役は、観客に拍手を要求するが、その拍手は亜子への称賛へとなだれていく。亜子が、背を向けた対戦相手への反撃を始めるからだ。場合によっては、髪束を綱にして引き回しても良い。幾度となく観た円滑なこの流れ。もはや、安堵することもできるかもしれない。客席の絹枝は、預かった亜子の子どもを抱きながらそう思う。もしも、亜子に別の習い事をさせていたとしたら、その彼女に何か得られたものがあったのだろうか。全てを手に入れてみせる。亜子の気配は、亜子と自分の境目が曖昧になっていく感覚を絹枝にもたらす。絹枝は、膝の上の亜子の子に、おやすみなさいと言った。何も心配することなどないのだ。今日は会場中、そう、悪役の彼女に至るまで皆、亜子の味方をしている。絹枝は思った。


かつて、亜子が友達を無くしたと言って、ひとり帰ってきた日があった。ランドセルに破けた教科書が詰められていた。彼らはバケツで水を浴びせたうえ、1人はデッキブラシで叩こうとしてきたという。絹枝は即座に学校へと問い合わせた。しかし、相手方の怪我の方が重かった。1人、右目の受け皿の骨が折れていると告げられた。亜子が図工室の木製椅子で応戦したからだった。絹枝は心配した。仕掛けられた喧嘩をまに受けないで欲しいと強く思った。亜子には、本当に必要な時に、その身や口で応じられる逞しさを授けたい。それが絹枝の願いだった。絹枝は就学したての亜子を連れ、体重ごとに階級が分かれている競技教室を幾つか巡った。柔道、空手、レスリング。亜子はためらっているようだった。怖いと言いたかったのかもしれない。また別の月には趣を変え、新体操、シンクロ、フィギュアスケート。心身の健やかさを育む。それは大層なこと。しかし、絹枝は亜子と熱心に、それらの発表会を鑑賞すればするほど、心持ちは醒めていくのだった。各々の世界観に応え得る容貌も才能の一つ。絹枝は亜子の醸し出す雰囲気には、可憐さがないことは認めていた。どこか、穏やかならぬ物言い、振る舞い。高貴な佇まい。
それは、乗馬教室見学の帰りだった。亜子は、穏やかな眼差しの老馬に気を寄せたようだったが、別レーンのよく手入れされた馬が、乗り手の果敢さを試すような走りを見せていた。あの時、亜子は気に留めただろうか。乗せられていたのは、稚児行列にはもう不似合いな頃合いのきりりとした小柄な男児だった。亜子は、馬も人も見ず、ただ、
「私は道場に行きたい。でも綺麗なやつが着たい」
といった。絹枝は、端的に願望を述べる亜子を快く思った。バレエのふわぴた、フィギュアのきらきら、シンクロのギラギラ。投げ当てることなく競う。技で魅せる。それは、絹枝に、どこか甘い慣れ果てをも含む厳しさを感じさせた。絹枝は、庇護される身の不自由さに敏感だったのだ。亜子には、手掴みで相手を負かす力を得て欲しい。彼女が想起したのは、幼い頃に親しんだ一頭のお蚕さんだった。


山間部にあった絹枝の実家は、染色作家を各代数名雇い入れながら、養蚕業を営んでいた。住居とは別に、蚕の養育場と、加工工房を兼ねた木造住宅の曲がり屋があった。広間を出て、細い廊下の突き当たりを右折した薄暗いかつての厩は、桑の葉の保存庫となっていた。お蚕さんは、湿った葉や、萎れてたものはいっさい食べないのだった。幼い絹枝は、土間の木枠の中で、黒く白く蠢く蚕たちのために桑の大枝をゆさゆさと運んだ。絹枝は、彼らのことを食べる事しか知らないように食べるのだ。と、背伸びして思いかけるものの、彼らは食べることの他にもできることが幾つかあるのだった。例えば、彼らは眠り、育つ。そして、繭糸を吐き出す以外にも排出するものがあった。それがどこか清々しい香気を帯びていることもあるのではないか。絹枝は毎度、期待を抱きながら、それらを新聞紙で包み放った。それほどまでに、お蚕さんを可愛らしく思っていたのだ。特に、大きく白く育ったお蚕さんが、ちぎって与えた葉の断片を、人の手を思わせる二足の脚で掴み食べる様を眺めるのは、絹枝に大きな満足を抱かせた。食べ残す、選り好みするということはあっても、食べ散らかしているようには見えない。心配を絶えさせない繊細な幼体。彼らは、育ちきると整った形良い繭を作らせる為に、細かく区切られた木枠へと移された。この”お引っ越し”は、からりとしたものだった。上下回転可能な格子状の装置が数体並べ吊るされている部屋の低い梁から、装置へ向けてお蚕さんたちを振るい落とす。部屋探しをする個体が天井方向を目指す大移動の動きで木枠が回転する。天井近くの木枠が常に空室傾向。少し間を置き、予め敷かれたピクニックシートに落ちた個体を拾い、再び落とす。彼らが均等に収まり切るまで作業を繰り返す。絹枝は、彼らの落下に若干の痛みを想起した。しかし、彼らは、一頭一頭、何食わぬ顔で木枠へと収まり、糸を吐くのだった。
絹枝は、一度だけ一頭のお蚕さんを成虫まで育てたことがある。それは、お引越しから漏れ出て天井に曲がった繭を拵えた個体だった。糸を取っても歪んでしまい売り手がつかない個体だ。絹枝は、その繭を菓子の空箱に詰めたのだった。動くお蚕さん、見てみたい。繭はちぎれて糸を取ることは出来なくなる。お蚕さんにせっかく作ってもらったものなのに。繭を右に左に溶かし出る蚕を眺めながら反芻した。不慣れな綿菓子をもどかしく思いつつも慈しんでいる小さな子を思い浮かべる。妹か弟か。それは、生まれ、歩き、翅の音を鳴らし、なにも食べずに絶え、乾いていった。彼の傷んだ遺骸には、ひとが他者を愛玩する事で得られる慰みの沸点を示す説得力があった。


ひんやり、ぷわりとしたかつてのお蚕さん。絹枝は、亜子の復帰戦のなか、その触り心地を膝に乗せた亜子の子どもに見出している。この対戦には既にいくつかの見せ場がもたらされたはずだ。乳児に倣って眠っていたわけではない。観客のひとりとして、仄かな熱情を携えて対戦を見守っていたのだ。リングの外に転がされた事務机の天板は二分割。亜子がコーナーポストの上から机上へと投げられた。双方、互い違いに組み合って空中回転する様は潔かった。場外戦では、移動する2人にスポットライトが巧みに当てられる。2人の晴れやかな衣装。スパンコールが散らしてある。2人を取り巻くスタッフの機敏な動作。逃げ慣れてない客を絶妙に回避しながら、亜子は折り畳み式のパイプ椅子で応戦していた。それは、盾にも凶器にも使え万能かつ頑丈。身体が、その衝撃を吸収し逃したのかと思うと、無傷のまま、ただただ畳まれている様子はかえって恐ろしい。
彼女たちそれぞれに、かつて壊すことしか知らないように、何もかもに触れようとしていた頃が確かにあったはず。そして、この子もこれから……絹枝の抱く子どもがぐずりだす。その乳児は、絹枝の胸や腹を蹴る殴るで主張する。なんとも勇ましい。亜子は、会場の吊り天井に反響するまろやかな歓声の中から、自分の子の声を聴き分けているのだろうか。絹枝は思う。近頃は、あーうーとしか言わなかったのが、下顎に前歯も生え、時折唇を巻き込んで、まー、と言って泣く。おやすみなさいの時間ですね。絹枝は思う。亜子は、観客に退屈を催させないよう勝ちを決めにいこうとしている。亜子はプロだ。誰かのためだけに、自らを賭するのではない。自分が、これと決めた領域を縦に横に密度を高める。愛するもののためだけに勝つと言ってしまっては、場がしらけるではないか。応援客も迷惑に思うだろう。亜子は闘いながらも、ひとを魅了する劇を紡いでいく。亜子は、順当に技を繰り出した。ヒールの動きもリズミカル。今こそ、序盤で受けたラリアットを仕掛ける適正時刻。亜子は、ふらつくヒールをロープへ投げた。あとはかえり打つだけ。亜子の腕にヒールの頸部が食い込み、跳ね返される。決まった。皆が思った。しかし、ヒールの倒れる様が、しゃなしゃなと、か弱すぎた。彼女は確実に技を受け損なった。意識も、朧げなのかもしれない。しかし、彼女は立ち上がった。観客はヒールの模様を鼓舞した。ヒールの彼女は、演者としての生命線と引き換えに、まだ負け方を選ぶことが出来ると考えている。彼女は、亜子の圧倒的な勝利を要求する。亜子はためらう。
もうこの対戦、終わらせはしませんか?
亜子は、きっと完全には癒えることのない彼女に、両目でもってそのともしびを移し与えようとする。徒労とはこのこと。亜子は、自らの戸惑いを示すために、ヒールの彼女に背を向ける。
お客様の中に神様はおりませんか?
亜子は仕草をもって訴える。ヒールの判断を鈍らせているもの。その中には、観客の亜子に対する素朴な期待も含まれているだろう。亜子は勝負の持ち越しを諦める。亜子はヒールの足首を掴み、コーナーポストへと登る。四隅のうち、手慣れたカメラマンがよく見える場所を亜子は選んだ。正しい角度で相手を突き落とさなくてはならない。何をしてもしなくても彼らは自分を許しはないだろう。亜子は思う。
お客様の中に神様はおりませんか?
亜子は自分以外の誰かを信じたいのだった。亜子は客を煽る荒い言いようを探し当てた。あとは盛大に観客に問うだけだ。マイクが寂しく拾うだろう。
「お前らの中に、神様ってのはいねえのか」
肩に担いだヒールの彼女が、芋虫のように控えめに蠕動する。いっそ蛹になって飛び去って欲しい。亜子は、神の使いを気取って思う。
「いねえんだな」
悪魔と交わす秘密の契約。こんな気軽なものなのか。亜子は思った。

FIN


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