短編小説「ドロシー・イン・フラノ」
打ちつける真夏の通り雨を拍動が幾度も追い払おうとしている。ミラは、略喪服の7分丈を捲り下ろした。後部座席からミラは、制服を着た壮年の運転手に祖父の面影を見出そうと空港から粘ったが、それはあまりにも難儀な話だった。運転手は、滑らかな手指に、華奢でひんやりとした質感の肌を持っていた。彼は、見渡しても誰もいない町道を交通違反の取り締まりばかり警戒し、信号を遵守、法令速度で走った。記憶の中の祖父、久は偉丈夫そのものであり、彼がポニーに並ぶと、それはいささか大きな極地犬のように見えるのだった。対向車があまりにも少なく、ミラは時間感覚を失ってしまった。1時間は乗ったのだ。朝に着けたミュウミュウの香水が蒸されて腹部からせり上がってくる。タクシーは閉鎖されて看板の剥げた精米所の前を通り過ぎた。久は、90歳まで田舎道と市街地を四輪駆動車で往来し、亡くなる直前、20キログラムの米袋を二つ担いでいたと伝え聞いたことを思い出した。
ミラが、小学校3年生の時だった。先生へ算数の質問を終え、職員室から戻ったミラが見たのは、クラスメイトの男子が3人、ミラのランドセルを踏みつけて中身をばら撒き、ミラのピアニカを床に叩きつけている光景だった。ミラは、手にしていた鉛筆をピアニカを壊す男子の肩に刺した。中身をばらまく男子の頬をそろばんで殴打し、教科書を両手に持ち構えると、残りの一人は怖気付いて尻餅をついたあと失禁して泣き出した。リーダー格の少年だった。お互いに謝りはしなかった。いずれも軽症で、ミラには幾度かのカウンセリングが課せられた。病院の診断書は強力だと知った。ミラは、少年たちが他のクラスメイトに加害する様子を既に見ていたので、弱く見られてはならないと下した咄嗟の判断だった。ミラの両親は憤った。娘は、私立の名門中高一貫校には進学出来ないだろう。それがすべてだった。夏休みが始まると両親は、ミラを置いて旅行へ出かけてしまった。家計の7割を不労収入が占めていた彼らにとって、思いつきで家を空けるのは容易な事だった。ミラは、負かされた気分になるのは家に居るからだと気がついた。祖父の個展の案内が届いた。ミラは、祖父に会うことにした。ギャラリーは、名門大学の正門通りの角地に面した奇怪なビルの1階にあった。外壁は原色のタイルに覆われ、所々に彩色された陶材のトルソや仮面が貼り付けられていた。近くに立つ交通標識と郵便ポストが、やけに建物と調和していた。ミラは、受付で記帳した。改めて、家に帰りたくないとミラは思った。
久は蝋人形作家だった。残された作品は、観光地の蝋人形館の所蔵品と、個人蔵のものに大分される。その夏、会場に並んでいたのは所有者が既にある著名人を模した人形に加えて、新作のダイアナ妃だった。ちなみに、マリリン・モンローは既に複数体、納品済だった。数人の職人と都内に工房を構えていた頃は、年に数体程度制作出来たのだ。北海道の内陸部へ移住し、個人制作に転じてからは、1年に2体までに絞って取り組んでいた。
久は、痩せ細ったミラを抱きしめた。久は大男だったので、久の腹部に噴霧された香水が、ミラの鼻腔を直撃した。それは、植物を感じさせない香りだった。
ミラは、
「家に帰りたくない」
と言った。
久は、泣き喚かないミラを確認して、本心だと思った。ミラは自分が連れ帰るのだ。久は、娘を極度には疎ましく思わなかった。しかし、久は一人になっても自分を可哀想だと思ってはいないように見えるミラに親近感を抱くのだった。
久は、妻と死に別れたわけではない。ミラの祖母は、久の住まいから車で30分程の隣町の市街地で開業した歯科医師だった。久は、ミラの祖母に蝋人形の為の歯型を採ってもらい、院内にある歯科技工所の機材を借りに訪れることがあった。ミラの祖父母は、20年近く別居生活を続けている。ミラは、祖父の家は知らない。どこであろうとミラは構わなかった。
久は、ミラへ荷造りを勧めた。ミラが着替えの他に持って来たのは、いつかの週末に両親と遠出した海岸で拾ったというガラス片と、最後にプレゼントされた土笛だった。しばらく、海へは行けない。久は、自分が森の奥に住んでいると思われているのだと感じた。久は、ミラをフルーツパーラーへと連れて行った。初めから、滋養のあるものは胃に収まらないことを久はよく知っていた。
ミラが、
「じいじも何か食べなよ」
と言った。久は、冷え切ったエスプレッソを啜っていた。久は、人がパフェを食べているのを見るのが好きだった。
「葡萄は好きか」
久は、一口目をミラへやろうと思い聞いた。あまり食べたことがないとの事だった。ふたりは黙って話題を探した。久は、この店へ通い続けて数十年経つが、客ごとにテーブルクロスにブラシ掛けをしていることに初めて気がついた。
ミラが、
「宿題はもう終わらせた」
と言った。その頬を涙が一筋流れた。久は、
「そうか」
と返した。ご馳走を前に泣く者を不審がる者は誰もいなかった。ふたりは祖父と孫にしか見えなかった。
「自由研究は何をしたんだ」
久は聞いた。ミラは、生活科で育てた朝顔の植物画を書いたとの事だった。一人一鉢ずつ育てる課題のついでだと言った。それは、図鑑に載せても差し支えないような種子や花弁を解体した様も正確に捉える必要がある絵だった。蝋人形の専門家の久からすると、厳密な規格を満たし、それをこなしていく様は、歯科医師であるミラの祖母に似ているように思えた。
「じいじにも宿題があるんだよ」
久は言った。
久は、ミュージカル映画「オズの魔法使」のドロシーに取り組み始める所だった。赤い靴のジュディ・ガーランドだ。発注主は、大型劇団在籍時に、ドロシー役で売れた子役出身の女性だった。引退後、専業主婦をしている彼女は、久の作った人形を回顧イベントへ出席させるとの事だった。長期休暇目掛けて催される公演は、毎年新たなドロシーを輩出していた。ミラと同い年のドロシーも生まれるだろう。ふたりは、併設されたギフトショップで買った缶入りの焼き菓子と上着を機内へ持ち込んだ。久はミラを窓側へ座らせた。護衛の為でもあったが、客室乗務員の夜会巻きを見て心地よく思うのが常だったからだ。ミラの祖母が黒く長い髪をまとめていた頃、久は彫刻を学んでいた。ミラの祖母の身支度の過程を知った朝、一番感慨深かったのが髪の結え方だった。頭髪の平面が、一本一本になった瞬間だった。解く度、久の利き手には大きなU字型のピンがひとつ残された。ある日、久は白銀の緩やかに波打つ髪に触れながら、
「マルタ・アルゲリッチみたいだ」
と微笑みかけた。久は、灰皿で殴られた。ピアニストでなくとも手を大事にする者はいる。人が他人に似ていると言うのはいけないことなのかもしれない。久は気がついた。
しかし、イヤホンを挿しながら静かに眠るミラの表情を蝋のマスクを施されたとある聖人の不朽体のようだと久は思ってしまうのだった。ミラは目覚めていたが、見つめ返し方が分からず寝たふりを続けていた。
空港を出たふたりを迎えたのは、深緑色のランドクルーザーだった。ミラは、久の腕に掴まって後部座席に乗り込んだ。ミラは、自分の父親とは異なる実利的な振る舞いに戸惑いつつ興奮した。出発だと思った。最初の市街地を抜けると、ミラは後方左右に折り畳まれているクッションが座席だと気がついた。久に移動していいかと聞くと、久は、車を止めさせ助手席に乗った。久は、ミラが体を横たえたいのだと思った。しかし、ミラは好奇心から望んだのだった。久は、後続車に追突された時に危ないとミラに伝えた。運転手は、
「ゴールドですよ」
と明るく告げ免許証を久へ見せた。ミラと運転手は鏡越しに目配せをした。白目と黒目の境が鮮明で利発そうな人だった。
一度川を越え、市街地を抜けた。黄金色の丘陵帯の一本道を車は走った。ミラはそれが遠回りとは知らなかった。奥行きの深い路傍を点々と、小麦俵が転がっていた。枯れかけのラベンダーが、そよ風に硬く揺れている。幾つか橋を渡った。丸太小屋の前で二人は降りた。運転手は、近くの無人駅に駐車してすぐ戻ると言った。そこは、久の工房ではなくステーキレストランだった。ミラは駅の名を聞いた。びばうし、と運転手は返した。富良野まで5駅だった。帰りを待つふたりの元へ、運転手がミラの祖母を連れてやってきた。ミラの祖母はミラだけに微笑んだ。それは、皿に添えられた祖母の嫌う野菜を先に久が食べようとも変わらなかった。ミラの祖母はタクシーを呼んだ。誰も酒は飲んでいなかった。ミラは、祖母の家へ泊まった。カーテンレールに白衣が掛けられていた。ひとり住まいに物干し竿は要らないのだった。冬、洗濯物を凍らせるだけだと祖母はミラへ言った。
ミラは、入れ歯を作る為に採った凹型に石膏を盛る手順を教わったことがある。ラバー製の器に水と石膏を入れ、振動の出る機械に押し当てながら細長いヘラを擦り付けて気泡を潰す。石膏で作る凸型へと正確に置き換える為だ。出来た模型をもとに蝋で出来た仮の義歯を作り、装置に埋め込んで加圧加熱をして蝋を溶かし、出来た空洞に最終的な材料を流し込み固める。ミラは、祖父と祖母の蝋を介した関係性を不思議に思った。久は、モデルの規格写真と計測結果をもとに水粘土で頭部の原型を作る。その周りに石膏製の外枠を解体可能な形で組み立て、分解、再構成したものへ蝋を流し込む。胴体は、別の作家が作る。髪は一本ずつ埋め込むので1ヶ月はかかる。歯は、祖母の医院の歯科技工士が陶材で作る。眼は、別注したものを祖母の診療室に併設された技工室の機材で久が磨く。各々のパーツは、後頭部を切り取って内側から貼り付けられる。
ミラが技工室を覗くと、久が硝子製の眼を磨いていた。鳶色の虹彩に、角膜を模した透明ガラスが溶かし乗せられていた。納品された歯と滑沢な両眼を携えて、久はミラを連れ帰った。助手席のミラは、子ども科学電話相談を聞きたがった。蝶はどうして最初は毛虫なのか、蝉はどうしてすぐに死んでしまうのか、水平線の向こう側には何があるのか……久には答えられても、思いつきはしない質問が幾つも出てきた。久は、ミラがどうしてミラなのかは分からなかった。ミラの母へ、聞くことすら叶わないだろう。久は、ミラの母が独立すると、祖母と別居して運転手として雇った青年と暮らし始めた。以来、娘とは会っていない。
空知と名乗るその青年は、檸檬色に塗られた外壁の中央に配された屋根付きの玄関ポーチで靴を作っていた。ラメが散らされたルビー色のヒールだ。既に胴体は出来上がり、リビングの隅に置かれていた。隣の作業台には作りかけの頭部が置いてあった。パーツを埋め込んだ後、彩色し、頭髪のセットを美容師へ依頼すると久は言った。久はミラの手を握った。空港でミラを引き上げた時、ドロシーの手に丁度良いと思いついたのだった。衣服から露出した胸元や手腕は蝋で作る。それが久のやり方だった。空知は、ミラが久の家へ泊まる間、離れの工房でドロシーの白いシャツと水色のワンピースを裁縫して仕上げると言った。空知は、青い靴下とリボンの髪飾りを手縫いし、籠の編み方まで教わりに旭川まで通った。
空知が出掛けると、久はミラから型取りしドロシーの両手を作った。人形は手指に表情の機微を持たせるのが最適だと信じていた。荷物は肘を折らせて掛けさせれば良い。誰も蝋人形の顔など見ていない。似ていない時に、初めて凝視するのだ。
顔の彩色を終えると久は美容師を呼んだ。ミラは髪を染められた。ミラの眉とは釣り合わない色だった。やがて、ドロシーへ移植された自分の髪をミラは惜しむようになった。断りは出来なかった。髪だけでもドロシーになりたい自分も居たからだ。ミラは、どこへ行けば良いのか分からなくなった。
祖母の家とは逆方向へミラは歩いた。途中、空知の運転するランドクルーザーとすれ違った。ミラは市街地の外れで、気球が数分おきに昇降しているのを見つけた。近づくと、家族連れの観光客が並んで待っていた。ミラは列に加わった。4人以上の家族は分乗した。
「このまま何処かへ行きたいかい」
振り返ると空知がいた。ミラは財布を持っていなかった。
「どこかへ帰りたい」
ミラは言った。ふたりは気球に乗った。首都圏から営業に来たという操縦士は、ふたりは兄弟なのかと聞いた。空知は、
「孫なんですよ」
と呟いた。ミラは眼下に久を見つけた。降りた所が、ミラと空知の帰る場所だった。
「良いご旅行を」
操縦士は声掛けた。後ろ姿は振り返らず、遠ざかって行った。操縦士は月末の帰路、天気雨に遭った。町外れの精米所で傘を差さずに追いかけ回る3人をワイパーの向こうに見た。雪合戦の予行練習のように、米粒を握り投げ、撒き散らしていた。来年の夏も彼らに会えるのだと操縦士は思った。
運転手は、後部座席で眠り込むミラに声掛けた。ミラは目を覚まし、窓の外を眺めた。目的地へは着いていなかった。雨は止んでいた。ふたりは、虹の袂に浮かぶ気球を見つけた。そこへは、空知と操縦士が乗っているはずだった。タクシーは、土の香りを呼び込みながら波打つ丘を進んだ。ミラは運転手へ、使い古しの紙幣を欲した。運転手は、歩きながら長い髪を捻り上げて折り畳んだ面にピンを入れ込むミラを見届けた。ミラが振り返った先には、何もなかった。ミラは、向こう側に来たのだと思った。肘掛けているのは、編み籠なのかもしれない。ミラは思った。
FIN