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「肉芽」



 上を向いて歩けば、そこらへ過去が転がっている。遠く爆ぜ、既に失われたであろう星々の光。圭は夜空に目を慣らそうと明るい画面を伏せた。滑走路から焦げついた臭いの風が流れてくる。貸した羽織物を返して貰うのを忘れた。圭は気が付く。機体の側面に並んだ窓のひとつひとつが橙色に灯り、圭へ魚焼きグリルを想起させる。誰もがこちらへ手を振っているように思うから、誰か一人目掛けて手を振り返すこともないだろう。ひとりひとり、律儀に見送るのは、馬鹿げているのかもしれない。私はいつどこへ帰るのか……圭は思う。
右隣にたった一台据え置かれた双眼鏡のコインが落ちる音がする。
「百円玉はありませんか」
圭は姉妹に見える子供たちに声掛けられる。
「デッキの入口の手前に自販機があった気がします」
と、圭は告げる。彼女達は礼もせずに立ち去った。下の子は小学生にはなっていないようだった。左向きに飛び立つ機体の動きは軽やかに見え、右向きに飛び立つ便は抵抗力を受けているように見えた。かつて一緒に遊びに来た者に、その旨を告げたら一言も発さずに、ただ訝しがられたのだった。つまらないお出掛けだった。圭は思う。やがて、彼は旅へ出ると言った。親から金を借りたのだった。圭は、デッキから手を振りながら、自分の乗った飛行機が墜ちる時に、隣に居て欲しいのは彼ではないと実に鮮明に思わされたのだった。賢い分水嶺。改めて悦に入った圭は、階下にある虎屋の売店でバラ売りの羊羹でも一揃え買って帰ろうと思った。
「お姉さん!」
先の幼女が圭の元へ走ってやって来た。
「お茶とジュースとコーヒー!」
「じゃ、コーヒーかな」
「またね」
「またね」
圭は返す。大人たちはどこへ居るのか。圭は思った。



 待合室を抜けて、圭は切手を買いに出た。雨上がりの午後のことだった。駅前の交差点で署名活動をする人々の切迫感が晴れの日とは違った。圭は、区内への動物保護シェルターの新設、緊急避妊薬の市販化、遺跡の地下を通る公道の建設反対運動の各々に賛同した。圭は、前髪が湿気で割れているのを感じた。既存の客の来店を促す為に出す葉書も買わなくては。常連客には、新しく入荷したヘアスタイリング剤のサンプルの引き換え券を挨拶文の片隅に添えて郵送する。カラーの持ちは如何でしょうか、夏へ向けてヘアスタイルの相談を受け付けております……五叉路を左に折れ、信号を二つ抜けると年中無休の郵便局がある。圭は、小学生の頃、集めた切手を分けてくれた友達が居たことを思い出した。1シート10枚で5柄の特殊切手を各種1枚ずつ手渡してくれたのだった。圭は、登下校を共にするクラスメイトの並木にその旨を告げると、
「××さんは、圭ちゃんからお返事が欲しいんだよ、きっと」
と返ってきた。並木のランドセルは、鳶色をしていた。切手をくれた子は案の定、新学期の終わり、旅行で訪れるのに丁度良い距離の土地へと引っ越した。圭は、切手を切り離す折に、その子の事を思い出すが、消息を辿ると、その子はもう生きてはいないような気がして宙吊りのままやり過ごすのだった。圭が上京した年、その土地は大災害に見舞われた。工業地帯から立ち上る黒煙、浸水する新興住宅地、被害者の姿を巧妙に避けて事態を捉える中継ヘリコプターからの映像。
今日、巨大モニターが流すのは、午前9時に解禁されたとある死刑囚の死刑執行に関するニュースだった。学生の頃、圭は舞台女優の友人に誘われて彼の半生をモチーフにした演劇を見に行った事がある。終演後、彼の支援者が現れ、直筆の手記を客席で回し見たのだった。彼が行ったのは、放火による大量殺人と自死した妻の死体損壊だった。圭は、劇の観賞後、拘置所宛てに手紙を出した。真夜中に書いた手紙だ。そこへは、ろくなことが書かれていなかっただろう。圭は思う。



 同僚へ氷菓を買って帰ると、そこへ並木が紛れていた。彼女は、圭の実家の2件先に住んでいる。いつもボーナスシーズンにやって来る。髪型を変えに来た、と当然のことを挨拶よりも先に彼女は発する。彼女は、パピコを1本圭に渡した。要領の良さは昔と変わらない。ヘアカラーを断り、黒髪の姫カットを所望する彼女は、信用金庫の事務職を続けているのだろう。圭は思った。ヘアピン2つでサイドを留め、後ろで1つに結えると一気に保守的な印象に仕上がる。鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で1番美しいのは?
魔女に仕えている者が最も美人の仕込み方を心得ているのではないだろうか。憧れる。慣れてきた手仕事に、飛んだ思考が闖入する。
並木は、着物雑誌をスクロールしている。圭は、並木に夏、浴衣を着せてもらったのだった。圭の浴衣は茄子柄、並木のものは、絞りの生地に薔薇が描かれていた。各々、母親の趣味だった。
圭が彼女と話したいことは無かったが、彼女が圭へと伝えたいことはあるようだった。何か一つのことを言いかねている者は皆黙り込むのだった。
「ちょっと付いてきて欲しい所があって」
受付で菓子折りを差し出しながら並木が言った。店長が昼食を一緒に摂るよう促した。圭は並木へ、何か食べたいものはないか訊いたが、並木は次の予約時間が迫っているとのことだった。エステか脱毛か歯医者か。圭は思った。
鼠色のスーツケースの車輪が時折、点字ブロックを鳴らした。着いた先は、レディースクリニックだった。“ニキビの無い美肌に!低容量ピル1シート3800円〜”、と車道に面したガラス戸に掲げられていた。圭は、シャンプー台で不織布を並木の顔に掛けながら、剥き出した鶉の卵の白身のような彼女の肌を羨んだのだった。エレベーターは、四方が鏡張りになっており、天井には円環状のシャンデリアが吊られていた。紅色の絨毯の毛が靴底を囲い覆う。
「基地の人でね、色々考えたら無理だった」
「そうなんだ」
圭は、何も分からなかった。出生前診断の結果を知って決めたとのことだった。並木の両親が、将来、相手方に何かあった場合1人で育てていけるのかと彼女を強く諭したとのことだった。誰もが地図上で指させる国で戦争が起きそうなことは、圭も勘付いていた。
「地元に女医さんが居なくって」
並木が言った。
巨大なショッピングセンター内のクリニックモール、長い待ち時間を要する公立病院、かかる者が周囲の強い関心を寄せられ、詮索を回避するのが難しい産婦人科と心療内科。圭自身、思春期外来から睡眠導入剤と抗不安薬を処方されて帰宅したら、祖父から勉強しすぎて頭が壊れたのかと言葉そのまま言われたのだった。彼らを未知の者と思える寛容さを圭は持たなかった。
「イタコさんはどうやってこの子を呼び寄せて、何を私に言うと思う?」
許すにも慰めるにも何もかも、開かれたように思える未来にさえ、そこには言葉が必要なのだった。いつから、私は私だったんだろう。並木の声が聞こえた気がした。
「そうだね」
絶句しないのは職業病だと圭は思った。
鏡よ、鏡よ、この世で1番美しいのは誰?
圭が発したいのは、何かしらの警告でも共感でもない。拒絶ではない。それだけが確かだった。



 処置台に跨る並木の生白い脚。カーテンの向こうでは、医師と看護師が使用器具を巡って口論をしている。声色を整えた医師が並木をなだめる。全て圭にとっては想像上の出来事だ。圭は並木を医院に置いて、駅前の喫煙所で待っていた。調べると、吸引法と掻爬法が出てきた。どうして“私たち”ばかり。圭は思った。呼び出されたので回復室へ向かうと、並木は圭が貸したカーディガンを胸に掛け休んでいた。飾り棚に活けられていたのが季節外れの造花だったことに圭は腹を立てた。花言葉が何か良いことを言っているのだろうか。圭は思う。
並木が、
「ごめんね」
と言った。圭は、
「別に何も」
と言ってテレビをつけた。去年の漫才大会の決勝戦とテレビドラマの再放送、地方都市を駆けるフルマラソンが放映されており、死刑囚の成育環境を繰り返し告げる報道番組も料理コーナーでは、首尾良く冬瓜のあんかけの調理方法を紹介していた。平穏な休日の午後だった。
「冬瓜ってさ、好きなんだけど一人暮らしで消費するの無理じゃない?」
圭は言った。
「じゃ、今度帰ってきたらうち来なよ」
「そうする」
「最近、圭ちゃんのお父さんがしょっちゅうコロッケ作って持ってくるよ」
「そうなんだ」
「食べに来たら喜ぶと思うよ」
「そう?お土産は何が良いかな」
社会人になって以来、圭は地元へ帰っていない。1度、就職祝いに母親がやって来たことがある。2人は、はとバスに乗って東京観光をしたのだった。天蓋の無い、2階建てのバスだった。東京タワーに向かいかけた時、通りがかりの寺の隅にお地蔵さんが連なって立っているのを見つけた。母親は、一目見るなり、目を背けた。極彩色の風車が皆、春風に煽られていた。
「左手に見えますのが」
バスガイドの女性が、タワーの建設秘話を語った。
「右手に見えますのが」
圭と母親には、話し合える事柄がなかったので、代わりに2人は“東京”縛りのミュージックプレイリストを作って車内で過ごした。母親の音楽の趣味は、圭が思っていたよりもふた回りほど若かった。歌詞の中で都民は、律儀に終電を守り、新宿で大雨に降られ、山手通りに出るまでに烟草を吸いすぎていた。親しい振る舞いに、必ずしも互いの身の上話が必要では無いということを改めて知った。愉快なことだった。


 圭は、並木を増上寺へと誘った。あの日、母親は高速バスで帰ったのだった。見送ると、また会える気がするのに、見送られるともう2度と会えない気がするのは何故だろう。圭は手を振りながら気がついたのだった。しかし、置いて行かれたのは、圭と彼女の父親だった。轢き逃げだった。運転手は未だ分かっていない。
「圭ちゃん、よく来るの?」
本堂に直行する圭に並木が声掛けた。
「左手に見えますのが浄土宗大本山の増上寺でございます。開山から600年、その後徳川家の菩提寺に選ばれまして」
圭は諳んじた。並木は微笑んだ。祈願札を携えた人々が本堂から流れ出てきた。圭と並木は受付へと向かった。並木が水子供養の欄にチェックマークを入れるのを見た。本当だったのだ、と圭は思った。
 風車を買った2人は定刻まで境内を歩いた。圭は、夏祭りの屋台を綿菓子片手に巡ったのを思い出した。掬った金魚はすぐに死に、毎年、玉蒟蒻を喉に詰まらせて咳き込む良い歳の大人がいた。盆踊りの曲が思い出せない。圭は焦った。
「幼稚園くらいの時かな、毎週ドライブで恐山に連れて行かれたんだよね」
圭が言った。
「そうなの?」
「そう。ひたすら白い石を積むの。平たい石を探してくると上手くいくの」
「圭ちゃんは昔から器用だもんね」
並木の声は、よく通った。振り向くと、並木がいつの間にか日傘を挿していた。蝉が落ちてくるのが怖いと並木は言った。圭も、道端でひっくり返った蝉を見殺しにして通りすぎるようになっていた。
「お土産はさ、空港の羊羹にしようかな。うちに持ってってくれる?」
圭は並木へと尋ねた。並木が、
「そうする?」
と声を弾ませた。
圭の耳元にプロペラの轟音が迫ってきた。
しかし、見上げても、そこへは青空が広がっているだけだった。雲の名ひとつ、圭には分からないのだった。

FIN

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