名前のない関係
この前、OKストアへ買い物にいったとき、レジのおばさんとお客のおばあさんがハグしていた。
大丈夫、大丈夫
レジのおばさんがそう言いながら、おばあさんをいなしている。
連休初日でレジには長蛇の列
みんな、カゴを3つも4つも抱えて並んでいるなか、レジ前で展開されたその場面が、わたしには眩しかった。
セルフレジの機械が導入されてはいるものの、レジのおばさんがおばあちゃんの財布の中から現金を取り出して機械にいれ、機会から吐き出されたおつりを財布に戻している。
レジに並んでいる人たちは、何も言わない。
きっと、いつも2人はこうやっているんだろう
そんな、関わりだった。
臨床でみるようなケアとしての関わりをそうではない場でみると、こんなにスポットライトがあたるものにかわるのか、とわたしは驚いた。
もうひとつ。
この前、餃子の王将にいったとき、お客のおばさんと店員のおばちゃんが「さっきのおじさん、びっくりしたわね」と話していた。
お客のおばさんが、並んでいる列に気づかずにそっと店内へ入り順番を抜かしてしまっていたのだ。
列に並んでいたおじさんに「ちょっとおばさん!こっち並んでるよ!!」と、怒鳴られていた。
店員のおばちゃんが気づき、そのおじさんから順番に案内することで事なきを得た。ただ、おじさんは入口近くのテーブル席。おじさんの次は、わたしである。わたしは、奥のテーブル席。わたしの隣にさっきのおばさんが案内される。
この時点で、店員のおばちゃん、ナイス!と心の中で思っていた。
お客のおばさんと店員のおばちゃんは案内のあいだ互いに目配せしており、常連客なんだなということがわかる。
注文を取りながらの、先の会話である。
おじさんには聞こえない位置と距離。わたしには、聞こえても聞こえてなくてもどちらでもいいというスタンス。
わたしは、ニラレバと餃子を食べながらおばさんとおばちゃんの関係を肌で感じていた。
どちらも、名前のある関係性ではない。あるとしても、店員と客だ。自伝を書くときに出てくる登場人物には、到底なり得ない。
けれども、わたしたちの日々は、そういう役名のない人々によって、支えられているんじゃないだろうか。
仮に、ひとり暮らしの高齢者であれば、生身の人間と関わる瞬間なんて買い物の時だけ、なんて人も多いだろう。
電話やビデオ通話が当たり前のように普及し、もしかしたらAIを使って日々のマネジメントをしている高齢者もいるかもしれないけれど、究極求めてしまうのは生身の不完全な人なんだと思う。
膨大なデータから最適化された返答よりも、「今日、いつもよりブスじゃない?」と言ってくれる悪友のような存在が、日々の中には絶対的に必要
なのに足りなくて。
それを、名前のない関係に求め合ってしまうんだろうな、と感じた場面だった。
名前のある関係は、時に重くのしかかる壁になってしまったり、共倒れになってしまったり、自由を奪う足枷になってしまうことがあるから
いつでも互いに離れられるくらいの関係が、ちょうどいいんだと思う。
一期一会じゃないけれど、人と人が出会い互いに関係を築いていくことは、それだけ尊いこと。
その尊さを慮ることが相手にも伝わることで、わたしたちは豊かでしあわせな気持ちをちょっとだけ齧ることができるんだと思う。