いやいや、あなた、医者ですよね?
医者だったら、自分の家族が亡くなっても平気そうだよね。
看護師さんなら、そういうの慣れてるでしょ?
友人とこういう話になると
うん、そうだね
と、軽く流してしまいます。
私の性格をよく知っている友人ならば、あさみは冷静沈着で顔に出ないと認知しているので、この返答で話が終わってくれます。
だって、こういう類の話は、自分の倫理観というか、生きる上での根っこにふれる内容になるから。
かっこよく言えば、コミュニケーションコストが高いの。
そうまでして、この人たちに私の考えを伝える必要があるのか?
いや、ないなと思い、スルーの道を選んでしまうんです。
では、医師や看護師が、身内の急変や看取りに慣れているかと聞かれれば
多くが、そうじゃありません。
患者の家族になると、その対応は一般人と同じ。むしろ、医学的な知識があるがゆえに、混乱したり、心の傷を深めたりすることだってある。
今回は、そんなお話。
===
患者さんは50代の女性。
病名は大腸がん。
はじめて彼女とお会いした時、え?大学生と社会人の息子がいるの?と、思わずタメ口で聞き返してしまったくらい、30代でも十分いけそうな雰囲気の女性でした。
まさに美魔女という言葉が、ピッタリ。
そんな彼女は、私が前の病院で働いていた頃からがんを患っており、長らく療養していましたが、ついに先日亡くなったそう。
今回焦点をあてるのは、彼女ではなく、その人の旦那さん。
彼は開業している歯科医師でした。息子ふたりも歯科医師を目指している、いわゆるスーパーエリート家族。
歯科医師も医師と同じような勉強・実習を受けているので、それ相応の知識・技術は持ち合わせています。
もちろん、がん末期の治療についても。
ここからは、患者さんの状態がどんどん悪くなり、いよいよの場合の決断を担当医が迫った時の話です。これは、DNRと呼ばれるものになります。
以下は、ウィキペディアからの引用です。
蘇生措置拒否と訳される。死を覚悟した患者ないし家族によって、容態が急変し心停止に至っても心肺蘇生法を行わないで、静かに看取って欲しいという意思表示がなされることがある。
最近では積極的な治療の最前線である大学病院であっても、もう治療しても改善の見込みがない患者・家族に対しては、DNRの同意を得るというのがスタンダードになりつつあります。
これは
・治療を放棄しているのではないか?
・患者を見捨てているのではないか?
という意見もあるかもしれませんが、自分がそうだったら、家族がこうなったら?と想定して考えてみて欲しいです。
がんやエイズなどの末期患者さんに対して、心臓マッサージや人工呼吸器の装着、点滴、輸血、酸素、昇圧剤(血圧を上げる薬)など、蘇生に関する処置をおこなっても
非常に効果が乏しいんです。
医療倫理の世界では、無益性という言葉を使ったりもします。
ただ、こんな難しい言葉を使っても、患者や家族には何も伝わりません。
だから
よくなる見込みがほとんどないでしょう。
どうやっても、回復が難しいでしょう。
医者は、こういう言葉を使います。
平たく、かつ、残酷に言えば
やってもあんまり意味がないということになります。
そして、ここが一番重要だと思うのですが、これらの処置は患者さんにとって苦痛を伴うことなんですよね。
たとえ、意識が遠のいていたとしても、痛い・苦しい・つらいが伴う場合がある。
心臓マッサージならば、圧迫のせいで肋骨がバキバキに折れますし、人工呼吸器の装着は喉へ太い管を麻酔なしで挿入するし、点滴や輸血は針を刺さなくてはいけない。
やってもあんまり意味がないのに。
このような視点に加え
処置をすることが患者さんのためになっているんだろうか。
患者さんにとってよりよい最期の迎え方ってなんだろう。
こういう背景から、積極的な治療をしない、むしろ控えるというDNRがうまれ、日本でもやっと定着しつつあるわけです。
話を歯科医師の旦那に戻します。
一般的に、患者さんの身体が衰弱していく状態の中、仮に心臓マッサージをしても、その救命率はほぼ0と言われています。もう、生きるためのエネルギーが底を尽きている状態なんです。
担当医がDNRの話を振った時、旦那さんはDNRを拒否しました。
自分がベッドサイドに辿りつくまで、なんとか生かしておいてほしい。
心臓マッサージを続けて欲しい。
と、懇願したそう。
もう、担当医も看護師も、目が点になったと口を揃えて言っていました。
これが、一般の人ならわかります。
最期まで頑張ってほしい、命を全うしてほしい、自分が看取りたい、この目で生きているのを最期に確認するのは自分だ、という思いがゆえに、DNRを拒否する人は意外と多くいます。
しかし、今回の場合は、家族が医師でした。
当然、私を含む医療関係者は医師である旦那として相手を捉えてしまいます。
だから
いやいや、あなた歯科医師ですよね?
がんの病態や終末期について知ってますよね?
この状態で心臓マッサージをしても、患者さんにとっては有益ではないことくらいわかるよね?
妻の苦しみを助長させるつもり…?
というのがみんなの心の声でした。
私も、もちろんそう。
ちなみに、死亡時間というのは、厳密に言えば患者さんの心臓と呼吸が止まった時間ではなく、医師が死亡を確認した時間になります。
したがって、家族や親戚が揃ってから確認して欲しければ、ある程度待つことも可能なんです。(もちろん限度はあります)
目が点になった担当医や同僚たちは、いやいや、よく考えてみて欲しいというわけで、旦那さんに何度も何度も説明し、理解を求めた上で最終的にはDNRの同意を得ることができたそうです。
患者自身も痛み止めや鎮静剤のおかげで、穏やかな最期を迎えられたそう。
それはそれは美しいお顔だったと聞きました。
よかった。
===
この話を聞いて、考えたことがあります。
それは、たとえ医療関係者であっても家族の死となると社会的役割よりも、夫や妻というベーシックな関係性が表在化するということ。
今回の場合も、私たちからみれば旦那さんは医師だけれど、患者である妻から見れば、ただの夫なんですよね。
医者であることは彼の一部であって、そのベースは夫という役割にある。
だから、DNRをいったん拒否したことは、夫としては当然の反応だったんです。これに気づいて、私は猛省しました。
それから、人が亡くなることという距離感も普段とは違ったはず。
いつも患者さんの死は身近にあるけど、それって第三者の死。あなたの死でも、私の死でもない。
つまるところ、仕事で関わっている死は他人事なんだな、とも思いました。
冷たい言い方かもしれないけれど、この他人事の感覚がないと医療の最前線にはいられないのかもしれないのかもしれません。
そうじゃないと
自分のメンタルがやられちゃう。
現に、メンタルが崩壊してしまった同僚も見てきました。
みんな、患者のために真面目になり過ぎて、患者と同化してしまった人たちばかり。
私のように、ある程度人と距離をおける人のほうが援助職は向いてるな、とも思います。
ただ、私も、家族や恋人が亡くなったら、きっと冷静沈着なあさみはどこかにいってしまうでしょう。
そういうもんなのです、きっと。
役割によって、事象に対して抱く感情は変わる。
だから、いやいや、あなた◯◯ですよねなんて思うこと自体、ナンセンスなの。
みんな、いろんな顔をもって生きている。
当たり前なんだけど
ついつい忘れちゃうよね。
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