変に知識を持つと肋骨折りマシーンになる
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って、昨日後輩(この記事の時の子)が話していたのが印象的だったので掘り下げていこうと思います。あ、風呂は入ってきてましたよ(´∀`)
その子のおじいちゃんは肺気腫で亡くなったそうなんですが、肺気腫の末期ってもう苦しくて苦しくて有名。ただ、お看取りは自宅でしたいという家族の意向があり、在宅に戻った二日目に亡くったそうです。住み慣れた我が家で、大好きなお寿司を食べて。ここまでは美談。
そこに邪魔者が入ります((((;゚Д゚))))
息子(その子にとってはお父さん)です。
息子さんはバリバリの公務員で、困っている人をみつけたら助けないと気がすまないタイプ。おじいちゃんが息を引き取った時、おそらく無意識的に「助けなくちゃ!!」と思ったのでしょう。
心臓マッサージを始めます。
まぁ、おじいちゃんの状態的には心臓マッサージも太刀打ちできず、結局は亡くなったのですが。その時の心境を後輩はこう語っていました。
「いや、まじお父さんイケてないと思って。肺気腫で苦しい中死んだのに心臓マッサージなんかされちゃって肋骨バキバキですよ、もう。肋骨折れまくりで胸郭凹んでましたからね。きっと、骨が肺に刺さってましたよ。お父さんもうやめてって思ったけど、完全に肋骨折りマシーンと化してて。やっぱり、変に救命の講習とか受けちゃうからあんな風になっちゃうんですよね。助けることが正義的な。何のために在宅療養してたのかって感じです。もっと、安楽に最期を過ごさせてあげたかったです。」
安楽ってなに?
[名・形動]心身の苦痛や生活の苦労がなく、楽々としていること。また、そのさま。「老後の安楽を願う」「安楽な生活を送る」
安全が保たれていて安らかに楽しく過ごすこと、だと思っています。
おじいちゃんの例で言うと、亡くなってから心臓マッサージされていますけど本当に苦痛を感じていなかったのかわかりませんよね。ただ、お父さんの立場からすると、何もしないで死ぬのを待つことは耐えられなかったんだとも思います。それこそ、何もしないことはお父さんの苦痛になるわけです。
今の日本では、穏やかに最期を過ごす事っていうのはみんなそうしたいのにほとんどの人が出来ない現状があります。それは
【家族内であってもそれぞれの価値観が違うことを認められない】
【それぞれの価値観を摺り合わせる機会がない】
からです。このあたりはまた別で記事書きます。
今回の事例だと
おじいちゃんの最期はもう近い。本人もうちで最期を迎えることを望んでいる。いよいよってなった時もおじいちゃんにとって苦痛となることは一切しない。それが、おじいちゃんの望み。
っていうことを、関わる人が同じように認識していれば良かったなと思います。付け加えるならば、助けたいとか悲しくて辛いというのは個人それぞれの感情であっておじいちゃんのためにはならないんだ、という俯瞰した視点を持てていると尚よかったなと思います。
助けることってどういうこと?
誤解がないようにプラスしておきますが、心臓マッサージを否定しているわけではありません。30代のサラリーマンが交通事故で心肺停止状態の状況なら、間違いなく私も心臓マッサージをします。肋骨が折れようが肺に刺さろうが、助かる可能性が極めて高いからです。ただ、90代のおじいちゃんが交通事故で心肺停止になってたら少し考えます。年齢的にも回復する見込みがあるかどうか、助かった先にこの人には幸せな人生があるんだろうか、を考えちゃうからです。私が救命向きじゃないのがよーくわかりますね(・ω・`)
高齢社会の日本でこのまま助けること=正しいこと、の価値観が定着し続けていると、その歪が必ず次世代にのっかってきます。今の時点で、もう疑問に思っている人がいるのも確かですもんね。
大切なのは自分の価値観ではなくて、その人にとっての価値観、この状況にとってのベターな選択はなんだろうと考えるシフトチェンジだと思います。
これができると医療の場面だけじゃなくて、恋愛でもビジネスでも余計な感情や労力を使わないで済みますよ( ´ ▽ ` )ノ