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人生でいちばん大切なことを教えてくれた、あるおばあさんとの1ヶ月

人は死んでも、死なない

「そういえば、そろそろ5年経つかな?」
「うん、そうだね。」

「今思い出しても、かっこいい旅立ちだったよね。」
「うんうん。あんなにすがすがしいお看取りは
後にも先にもないよね。」

かつての同僚と飲みに行くと
看護師である私たちは、決まってある患者さんの話をします。

名前は田中さん(仮名)
大腸がんで5年前に亡くなった患者さんです。

彼女は私が関わった患者さんの中でも
忘れられない人ランキングベスト3に入ります。

医師・看護師をはじめとしたスタッフだけではなく
同室者からも慕われる、素敵な女性でした。

こう書くと特別な人だと思われるかもしれませんが
彼女はお金持ちでもなければ、肩書きもない普通の主婦。

勤めていたのが大きい病院だったので、大手企業の社長や芸能人を担当したこともあります。
しかし、亡くなったあと、その人たちの名前が挙がることはありません。


それよりも、田中さんを話題にすることの方が圧倒的に多いんです。

彼女が亡くなって5年。

彼女のいのちのともし火は消えましたが
田中さんは、私たちの心の中で生きています。

どうしてなのでしょうか。



田中さん、最期の1ヶ月が始まる

改めて、田中さんについて簡単に紹介させてください。

田中さん、女性、80代、大腸がんの末期。
旦那さんが亡くなってからずっと一人暮らし。

がんの痛みやだるさが増してしんどくなり
一人での生活が難しくなったため入院してきました。

余命はあと3ヶ月ほど。
本人へも告知されていました。

しかしながら、病気はどんどん進行し
医療者の間ではもって1ヶ月だろうと予想していました。

彼女は、がんになった当初から、
治療をすすめるよりも、自分らしい毎日を大切にしたいと
抗がん剤や放射線療法といった積極的な治療を望みませんでした。

今回の入院でもそれは同じ。
痛みを取る、辛さを和らげるといった緩和的な対応
そしてお看取りが目的でした。

もう手術も抗がん剤もできません。
乱暴な言い方をすれば、あとは死を待つだけ。
田中さんは絶望の中、毎日をやり過ごしていたと思われるかもしれませんが実際は大きく違いました。

あと、30日。



ナース人気No.1の田中さん

ある日のこと。

あら、その足音はあさみさんね?今日もよろしくね。

私が田中さんのベッドのカーテンをあける前に、先に彼女から挨拶されてびっくりしたのを覚えています。

彼女は人を覚えるのが得意だそうで一度担当した看護師はもちろん掃除の人やヘルパーさん、同室者の患者についてもしっかり把握していました。

ナースステーションでも

「田中さんって私たちのこと、ちゃんと覚えてくれるよね。」
「うんうん、一度も看護師さんって言われたことない。」
「名前で呼んでくれるのって、やっぱり嬉しいよね。」
と、話題に。

実は看護師って、マスクしてると顔の半分が隠れてしまうので
なかなか覚えてもらえません。

看護師さんってひとくくりで呼ばれることが多いので
名前で呼んでくれるの、とても嬉しいんです。
看護師としてではなく1人の人間として扱ってくれてる感じがして。

もはや、田中さんの担当になるとラッキーという雰囲気になっていました。
それほどまでに、みんな田中さんのファンになっていたんです。

患者さんたちは、当たり前ですが、治療が必要だから入院しています。
たとえ見た目にはわからなくても
それぞれが痛みや辛さを抱えているんです。

田中さんも例外ではなく、がんに対して強い痛み止めを使用していました。
それなのに、ここまで他者へ配慮できるその姿勢に私は感心しきりの毎日。

あと、23日。



検査よりも大事な時間

ある日。
お見舞いにきてくれた人たちと1日中談笑されていました。

1つのグループが帰るとすぐ別のグループがやってきて
田中さん、ほんとに死んじゃうの?
なんてやり取りをしています。

実は、この日、検査の予定がつまっていたのですが午後にたくさん面会者がくるから、と担当医に交渉してわざわざ検査をずらしてもらっていたんです。

この時、がんのせいでお腹に水がたまり
それを流すためにお腹にチューブが刺さっていた状態でした。
しかし、面会者に心配をかけないよう
彼女はそれを隠して面会者と笑いあっていました。

夜になって面会者が帰ったあと
さすがに疲れてるんじゃないですか?と声をかけました。

みんな私が死にそうだってかけつけてくれてるのよ。みんな、話すチャンスが最後だとわかっていたからこそメソメソするんじゃなくて、めいっぱい楽しみたかったの。検査もずらして先生に怒られちゃったけどこれで寿命が縮んでも本望だわ。

と、ニコニコしながら答えてくれました。

検査よりも知人との時間を優先した田中さん。
このポリシーはおわりまで続きます。

あと、10日。



プライドとケアのあいだで

ある時、田中さんからこんなことを言われました。

もし、私がこの先弱っていっても下の世話だけはしないで。歩けるうちは無理やりトイレまで連れてってちょうだい。これだけは自分でやりたいの。お願い。

思えば、これが田中さんのはじめてのワガママでした。

本来ならば医学的処置をすべきという判断で尿の管を挿入します。
これを入れると勝手に管から尿が出て、繋がっているパックにたまるのでトイレにいかずにすむようになるんです。

それに、高齢であることや身体がしんどいという理由で下着からおむつに変え、仮に漏らしても大丈夫なようにしていくこともあります。

しかし、田中さんはこれらを全て拒否しました。
もしやるとしても、私の意識がなくなってからにして欲しい、と。

看護の側面から考えれば、これは危険を伴います。
ふらふらの身体でトイレまでお連れし、用をたして、ベッドまで戻る。
一連の流れでいつ転倒・転落するかわかりません。

下手をしたら、がんで死ぬ前にどこかを打って死んでしまうかもしれません。そのため、この申し出を受け入れるかどうかナースたちで議論しました。

その結果、満場一致で田中さんのしたいようにしよう!と決まります。
みんな、田中さんのワガママを尊重したかったんです。

彼女の意志を支えることが最善のケアになる。
そんな確信が私たちにはありました。

あと、3日。


さいごのお願い

田中さんからナースコールがありました。
もうこの時は寝返りをするだけで
息が上がってしまうほど身体が苦しい状態。

それでも、彼女はトイレに行くと言い張ります。
ベットを起こして座らせてから立たせます。

これだけでよろめいているのにそれでも一歩、また一歩と歩く姿に
ベッドで失敗してもいいよ、なんて言えません。

私も全身を使って彼女を支えながらトイレに向かいます。
もうこの時田中さんは、ズボンの上げ下ろしも自分ではできませんでした。

私も一緒にトイレに入り
彼女の下着とズボンを下ろします。

そのまま座らせようとしたら

ねぇ、もう限界かもしれない。私を楽にしてちょうだい…

と、絞り出すように言いました。

この時から鎮静が始まります。

もともと田中さんは、元気なうちから鎮静という治療の選択肢を説明されていました。
鎮静とは、睡眠薬よりももっと強い薬を使って意識を飛ばすこと。

がんの終末期と呼ばれる最期の場面で使われることが多く
身体的・精神的な苦痛を除去するのに効果的と言われています。

しかし一方でもちろんリスクもあります。

意識を飛ばすほどの強い薬を使うため、意識だけではなく呼吸中枢を管理する部分にまで薬の効果がおよび、そのまま患者さんが亡くなってしまうことがあります。

このため、鎮静という手段はたとえ患者本人からの要望があっても家族や親族から「死を早めるようなことはして欲しくない」と反対されることが多く、一般的にまだまだ認知されていません。

ただ、田中さんは強い意志がありました。
入院する前から

私が辛いといったら積極的に薬を使って欲しい。それで死期が早まっても後悔なんてしないしあなたたちお医者さんを責めたりしない。私は、私を、十分に生きたの。だから、最期は苦しまずに逝きたい。

と、強い勇気と覚悟を持っていました。

田中さんからの鎮静の申し出があった時からすぐに担当医と看護師で準備し鎮静が始まりました。

薬が効いてくると眉間にしわを寄せてた表情もどんどん柔らかくなり
寝息も穏やかなものになっていきます。

田中さんは意識がなくなりました。

あと、10時間。



ティッシュもハンカチもいらないお別れ

そろそろ逝ってしまうかもしれない。

これに関しては医学的な・統計学的なデータがほとんど役に立たず
ほぼ医者と看護師の勘で成り立っています。

彼女の状態から、今日が山場だと踏んだ担当医が
彼女の親族を呼び始めました。

彼女は一人暮らしでしたが、息子さんがいました。また、親族ではありませんが長年の友人、近所に住んでいて暮らしを支え合ってきた人もちらほら。

そろそろお別れの時間です。

みんな、田中さんの顔を見るなり泣き出すのかと思ったら
ニコニコ談笑し始めます。

隣には、今にも死にそうな田中さんがいるのに。

ほんと、田中さんは自分らしい人生を歩んだよね。母さんは最後の最後まで母さんらしかった。もう後悔なんて一つもなさそうな顔してるわね。

みんな、思い思い田中さんについて語り始めます。

みんなが集まるのを見計らっていたかのように
田中さんの血圧が下がり始めました。

そして、モニターが0を示しピーという機械音が病室中に響きます。
田中さんは苦痛を感じることなく、穏やかなまま旅立ちました。

集まっていた皆さんも穏やか。
悲しいけれど良かった、これで良かったんだという
不思議な晴れやかさがそこにはありました。

田中さんの命は終わりを告げます。
2013年、夏の出来事でした。



田中さんが持っていた普通じゃないもの

ここで、なぜ彼女がここまで健やかな療養・お看取りができたのかを一緒に考えていきたいと思います。

まずは、田中さんの背景から。

彼女は長年、住んでいた地域の民生委員をしていました。

民生委員とは地域と行政の橋渡しのような役割のこと。シングルマザーや貧困家庭、一人暮らしの高齢者など、サポートが必要な家庭をチェックしておく必要があります。

コミュニケーション能力が求められることはもちろん、関係各位への連絡調整や地理、情報処理能力もないとつとまりません。

看護師やスタッフをすぐに覚えてくれたのもここが関係していました。

人は覚えられると嬉しい。
認知してもらえるとその人へ情が湧きます。
それをよく理解されていました。

田中さんは民生委員を務める中で様々なスキルを身につけ
地域にとって欠かせない存在となっていたそうです。

面会者が多く訪れていたという話もこのため。

田中さんにかつてお世話になった人が噂をききつけ
毎日のように病院に面会者が訪れていました。

さすが田中さんのお知り合いという感じで
誰もメソメソ泣いたりしていません。
面会者も田中さんもよく笑っていたのが印象的でした。

同世代くらいのおばあちゃんもいれば
赤ちゃんを連れた若いお母さんもいて
長年、地域に貢献したことが垣間見れました。


それから、田中さんの息子さんもご紹介させてください。

彼女は入院するまで一人暮らしをしていましたが
それは息子さんが介護放棄した、という理由ではありません。

それが彼女の望みだったからです。

下の世話になりたくないという話をしましたが
あなたが田中さん本人だったとして
それを実の息子にしてもらいたいと思いますか…?

おそらく、ノーですよね。
彼女が自分のプライドを守ろうとしたように
息子さんも母の名誉を守ったんです。

さらに補足をすると、田中さんの息子さんは社会学の教授でした。
高齢者を取り巻く環境やがんの終末期、看取り問題など私たち医療者と同じように、いや、それ以上に知識と知見を持っていました。

だから彼女の要望であった

・1人暮らしを継続したい
・病院で最期を迎えたい
・積極的な治療はしたくない
・苦しくなったら鎮静を

これらすべてに、完全同意してくれたんです。

おそらく、田中さん本人との衝突もあったと思います。
私たち医療者の見えない場面で2人が何度も話し合っているところを
こっそり見ていました。

けれども、結果として、母の意思を尊重することが
遺された者のためになることを理解されていた
のだと思います。

おかげで、治療の方針や意思決定がスムーズに進み
田中さんの理想としていた死に方ができたんじゃないかと
私を含め、スタッフはそう感じました。

あらためて、田中さんが持っていた普通じゃないもの。


それは、人からの信頼です。

彼女はお金も肩書きもありませんでしたが
人からの信頼がずば抜けていました。

それは親族、地域の人、医療者という枠にとらわれません。
どんな人に対しても、彼女は全力で向き合い関係性を築いていました。

相手のためを思い行動をする
相手のことを否定しない
相手に期待するのではなく信じる

こういう姿勢が、さらに田中さんの信頼力を高め
その結果、人との繋がりが濃いものになっていったのだと思います。

その証拠に、田中さんが亡くなり出棺するまでのあいだ
医者を含め、関わったスタッフすべてが
彼女のもとへ手を合わせにいきました。

こんなことは後にも先にも
彼女のケースしか知りません。


あれから3時間。
いまだ彼女が旅立った実感が湧きません。



ありがとうのその先にあるもの

病院での各種手続きが終わり
田中さんが病院をあとにする時がきました。

病棟のスタッフ、全員でお見送り。
後輩のナースは我慢できずにぽろぽろ泣いています。

田中さんの棺が車にのせられ息子さんも車に乗り込もうとしたその時

もう一度私たちの方へ駆け寄り
担当していた先輩ナースの手をとって

母はあなたたちのような医療者に囲まれて本当に幸せだったと思います。本当に、ありがとうございました。

と、かたい握手を交わしていました。

「私たちも田中さんのような患者さんと出逢えて良かったです。
ありがとうございました。」

と、先輩も泣きながらお礼を伝えていました。

私はその光景をみてありがとうが握手をつたって
本当に行き来しているように感じました。
人と本当にわかりあえた時って目で見えるんだなって。

ありがとうの先には人がいて
その人の先にはまた違うありがとうがある。
そうやってミルフィーユみたいに交互に続いていくんだろうな…
なんて考えていました。

患者さんが亡くなる霊安室という場所でしたが
その雰囲気はすごくあたたかなものでした。

あれから5時間。
彼女はご家族のもとへ帰っていきました。


理想のお別れと旅立ちの中で

田中さんの旅立ちから数日たったある日。
病棟のスタッフでカンファレンスをしました。

治療や看護に関する議論をはじめ
関わった医療者のメンタルケアの意味合いもあります。

その中で

人ってああいう風に死ねるんですね。いい表現が見つかりませんが私はそばで見ることができて良かったです。

と、新人ナースがぽつりといったんです。

この時、私は田中さんの遺してくれたものの大きさにハッとしました。

私たち医療者にとっても田中さんのケースは貴重な事例でした。なぜなら、自分の希望や価値観を最優先し己の人生を全うした、いわば理想に近い事例だったからです。

新人ナースも今やベテランナースになっていますが
この田中さんの事例は忘れられないといっていました。
もちろん、私もそうです。

あれから2週間。
私たちは田中さんのいない日常に慣れていきます。


人との繋がりの中で生きていく


人の魅力は人間力とよく言われますが、田中さんの事例を通して人間力とはこれまで貯めてきた信頼、その総量なのだと確信しました。

お金をたくさんもっていること
有名な大学や立派な企業に勤めていること
有益な人脈を持っていること
できること・スキルがたくさんあること

これらは信頼に遠く及びません。

しかも、信頼は世代や血縁をこえて受け継がれていきます。

現に、私は田中さんの人生からすると
最後の病院にいたナースの1人にすぎません。

でも、こうして彼女とのことネットで発信しています。
これを読んだ人もまた、田中さんからの信頼を受け継いでいると考えると
有機的な連鎖がうまれている気がして、なんだか嬉しくなります。


信頼をお金や人脈に換えられることができても
お金や人脈をそのまま自分の信頼に換えられるかどうかは
その人の言動や振る舞いにかかっています。

その点、田中さんはそれが驚くほど上手でした。

相手がわかるように言葉にし
相手に伝わるように行動にし
相手との理解に疑問があったらとことん話し合っていました。

こういう、自分の言動や振る舞いを信頼へ変換する場としてコミュニティが有効なのだと思います。

田中さんの場合は地域というコミュニティの中で信頼を貯めました。
それが彼女の場合、人生の最終章を大きく彩ります。

この構図、地域というコミュニティがネット上やSNSになっても一緒だと言えます。

現在、インフルエンサーが主体となったオンラインサロンがブーム。
これは、お金や人脈以前に自分の言動や振る舞いを信頼に換える場として機能していると私は考えています。

よくネットやSNSは怖い・危険だという声がありますが、リアルな地域コミュニティだと自分と合わない人とも付き合わなきゃいけない、関係性を切りにくいのに対して、ネット上ではスルーしたり、必要ならばブロックするなど積極的な自衛が可能です。

こう考えるとコミュニケーションに関するリスクやコストは、ネットもリアルもそう変わりません。

つまり、ネットやSNSの方がより自分にフィットしたコミュニティに属しやすいと言えると思います。
自分の信頼を貯める場として考えても、嫌いな人から集めるより好きな人から集めたい。その方が質も担保できるはずです。



おわりに

何もないと思っているあなたも必ず持っているもの

それは今、周りにいる人たちです。
その人たちから自分に向けられている信頼が
あなたにとって大事なものの一つです。

もちろん、お金や人脈、肩書きだって大切。
必要な時、自分を守ってくれる盾となります。

けれど
それらは天国にもっていくことはできません。

私たちが持っていけるのは経験と思い出だけです。
そこには、必ず、人がいます。
その人たちが自分の経験と思い出をより豊かにしているはずです。

そして、自分がためた信頼は
田中さんが私に遺してくれたように
人に委ねて、育ててもらうことができます。

人にとって、いちばん大切なのは人。
人との繋がりが一番の資産です。

人生でいちばんたいせつなもの
ほら、あなたのすぐ隣にも必ずあります。

どうか、たいせつにして下さい。


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ナースあさみ
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