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忘れられない授業のはなし

看護学生の頃、こんな授業があった。

それは、看護学生に必須である解剖生理学や薬理学ではなく、ギリシャ哲学の授業だった。

わたしの通っていた学校では、医療人としての哲学や倫理観を学びましょうというスタンスが色濃く残っており、ギリシャ哲学の授業は1年生の必修科目だった。

毎回、岩波文庫や海外の論文の日本語訳を読み解きながらテキストの文脈を辿る授業は、わたしの中のアドレナリンを増大させた。

たった3行のテキストを50分近く解説していたこともある。

もちろん、わたしの周りは系統の違う授業に閉口し、副交感神経を大いに優位にさせ、机に突っ伏している友人たちも多くいた。

ただ、わたしはその授業が楽しくて楽しくて仕方がなかった。

卒論の練習単位だった、お試し研究ゼミもその教授のクラスを受けたほどだ。

ゼミでは、英文やラテン語の訳から入るアドバンス編。

毎回課題の量が尋常じゃない。

はて…わたしは何学科の学生だっけ…

と、白目になりながら英語辞典と向き合っていた。

そんな、ギリシャ哲学漬けの毎日
どうしても忘れられない授業がある。

その話をしていきたいのだが、いろいろあやふやなところがあるので先に謝っておく。

大変申し訳ありません。

当時のわたしに、メモをとる習慣がなかったことを心の底から詫びるとともに、当時のわたしと会えるなら飛び蹴りをお見舞いしたい気持ちである。


気を取り直して、忘れられない授業の話へ。

それは、相手に嘆願するというテーマの話だった。

ここで嘆願をググると

【事情を述べて、願うこと】

と、ある。

しかし、岩波文庫のテキストから文脈を辿ると、古代ギリシャにおける嘆願はそんなやわなものではなかったそう。

教授、曰く

古代ギリシャにおいて相手に嘆願することは、相手の膝から下に向かってタックルして話を聞いてもらうようなものだった、という描写が他の文献にも残っている。

しかも、それは身分が下の者から上の者へ行う者だった。
ということは、嘆願は命をかける行為。

もし、その嘆願が的を得ていなかったり不当なものだったりしたら、問答無用で命を落としていただろう。

つまり、相手を説得するというのは、本来それくらいの勇気と覚悟が必要なもの。

君たちが臨床で出会う嘆願の場面の多くが、IC(インフォームド・コンセント)だろう。

パターナリズム(父権主義)が色濃く残る医師もまだまだいるだろうが、そんな時こそ、この嘆願を思い出して欲しい。

その医師は、真の意味で患者に嘆願しているだろうか。
相手にタックルするような気持ちで
そして、失敗したら自分の命と引き換えにするくらいの

それほどの覚悟をもって
相手を説得しにかかっているだろうか。

君たちもだ。

患者に提案するとき
患者を説得するとき

自分の命を引き換えにするほどの情熱と専門性をもって
患者に向き合っているだろうか。

どうか、忘れないで欲しい。


あれから10年。

実際の臨床において、真の意味で嘆願しているICに出会ったのはほんの数件だった。

多くの医師がパターナリズムを振りかざし
患者もそれが当たり前だと思っていた。

医師は自身の提案が否定されたり棄却されるなんてこと、微塵も考えたことのないようなスタンス。

時間的制約やコストの問題もあるだろうが、もしも日本の医師が患者に対してきちんと嘆願することができたら

ネットを賑わすようなニュースやよくあるクレームが激減するだろう、なんて思う。


わたしだって毎回できている訳ではないけれど

患者さんに話を聞いてもらいたいとき
提案したいとき
説得したいときは、この嘆願を思い出す。

・相手にタックルするほどの気合い
・時間と場を作ること、選ぶこと
・業務を超えて、自分の命を引き換えにできるほどの内容か

これを意識すると、いかに自分が国家資格に甘えているか、無意識のうちに患者さんにマウントを取っているかがわかる。


きっと、医療の場面でなくともこの嘆願という概念、そして文脈は役立ちそうなのでさらっと残してみた。

相手に話を聞いてもらいたいとき
相手に提案したいとき
相手を説得したいとき


あなたは、誰になにを願う?




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