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30歳手前で他業種にキャリアチェンジ!踏み出した先で繋がった縁とスキル
30歳前後で、自分のキャリアを改めて振り返る方は多いのではないでしょうか。このままキャリアを積み重ねるべきか、環境を変えて新たなキャリアに踏み出すべきか。10年前の私はそのままキャリアを積み重ねることを選びました。
以前より転職が身近になった現在、どのようにキャリアと向き合っているか、30歳目前に他業種へキャリアチェンジした喜友名ひとみさんに話を聞くことができました。今までの仕事やスキルが次の仕事に生きていたり、自分の得意なことを発見したり、自分が楽しいと思える仕事を選んだりと、どのようにキャリアと向き合ってきたのかお話をお伺いしました。
旅行会社に就職するも母校の教員へ。観光業に携わり続けること
ーなぜ旅行会社を選んだのでしょうか。
中学生のとき、修学旅行に旅行会社の人たちが同行していて、添乗員という仕事があることを初めて知りました。「仕事で旅行に行けるの?なんて素敵な仕事だろう」と興味も持ったんです。
また、高校の進学先の決め手の一つにオーストラリアの研修旅行があって、その研修旅行にも添乗員さんが同行していたんです。「仕事で海外にも行けるんだ」と気づいて、そのときの添乗員さんといろいろ話して、「この仕事やってみたいな」と思い始め高校卒業後、観光系の専門学校に進学したんです。
ー専門学校卒業後、新卒で旅行会社に就職して、どのような仕事をしましたか。
実際には事務関連の仕事もあって、カウンターに来店したお客さんの接客もします。チケットの手配をしたり、ホテルパックやツアーの申し込みを受け付けしたり。沖縄独特の風習も息づいていて、模合旅行のプランニングとかも(笑)。カウンターでお客さんと話すことも好きでしたね。
カウンター業務の傍ら、夢だった添乗員の業務も行いました。修学旅行のシーズンには月に2〜3回は県外へ。最も多い年で年間の30%ほど、添乗員としてツアーに同行してましたかね。国内だけでなく、アジアにも行きました。
ーそして旅行会社を退職して母校の教員へ。なぜ専門学校で働くことにしたのですか。
将来的には母校の専門学校で教員をやりたいと周りに話してたんです。添乗員として私一人が働き続けるより、観光系の仕事をしたい学生を10人育てたほうが、10人分の働きが生まれるじゃないですか。だから、教員として学生さんを育てる側に回るのもいいかなと思ったんですよね。
この専門学校では在学中にいくつか資格を取得するんですね。主要な資格には、国家資格の「国内旅行業務取扱管理者」と「総合旅行業務取扱管理者」があって、添乗員免許の「総合旅程管理主任者」を含めた3つの資格があって、私は学生1年目で取得したんです。
だから、その試験勉強での経験や工夫したことを授業に落とし込めたら、学生さんの役に立つんじゃないかと思って。すると旅行会社に勤務した3年後、担任の先生が退職することになって、その後任として声がかかったんです。
入社3年で辞めるなんてと、会社には止められました。もう少し続けていたら、アメリカやヨーロッパ方面へも添乗できたんですけど、この機会を逃したら、たぶんもう教員にはなれないだろうと思ったんですよね。
教員として直面した観光業の現実
ー専門学校ではどのようなことを教えていたのですか。
観光業の専門学校なので、空港やホテル、ブライダルなど観光業全体に関わりがあるんですけど、資格取得やビジネスマナー、パソコン講座を受け持ったり、就職活動に必要な面接の練習、履歴書の添削もしてました。
求人の斡旋もするので、沖縄県内の企業から学校側に求人の問い合わせが来たら、生徒1人ひとりの性格や本人の意志を考慮しながら、この企業はどう?興味あります? と声かけもして。
でも、コロナ過に入って旅行会社自体が縮小して、旅行会社を目指す子が減ってしまって、最後は新入生が10名切ったんですね。最終的に学校側が苦渋の決断で、旅行系の学科を閉鎖することになって。
その後、広報に異動になったんです。 私がSNSが好きだったのと、向いてそうという理由で、1年半ほど広報を担当したんです。DMの制作やSNS更新の業務は楽しかったんですけど、教員として働けないのは何かが違うなって思い始めました。
観光大使を目指したきっかけは、専門学校での出会い
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ーなぜ観光大使に挑戦したのですか?
当時「沖縄観光親善大使ミス沖縄」の3名が、私の勤めていた専門学校で研修を受けていました。その方々と職員として関わったことで、遠い存在だった「ミス沖縄」を身近に感じました。
いろんな年齢の方がいると知り、観光に関わる活動をするので「もしかしたら、私にもできるんじゃないか」と観光大使に興味を持ったんですね。
コロナが落ち着いて「沖縄観光親善大使ミス沖縄」が再開することを知り、専門学校で広報をしながら、初めて観光大使にチャレンジしました。結果は2次審査で落選だったんですけど。
その後すぐにサンミュージック沖縄の養成所に申し込みをしました。学校の広報をしながら観光大使、タレントを目指して養成所に1年通ったあと、タレントとしてサンミュージック沖縄の所属になり、7年半勤めた専門学校を退職することに決めました。
ー観光大使のオーディションには何度も落ちたそうですね。
観光大使には計6回挑戦しています。まず「沖縄観光親善大使ミス沖縄」に挑戦して、サンミュージック沖縄の養成所在籍中に「2022年沖縄市観光大使ミスハイビスカス」「2023年 那覇観光キャンペーンレディ」「第37代泡盛の女王」にも落ちてしまい、全部だめでしたね。
なぜ通らなかったんだろう、とたくさん考えました。養成所に所属してラジオのパーソナリティを担当したこともあり、人前でしゃべるのはわりと得意なほうだと思っていたので、甘く見ていました。
私には謙虚さも足りなかったんです。観光大使に選ばれた方はしっかりと考えてから自分の言葉で話していたと思います。今思うと、私の話は浅かったんですよね。
「喜友名さんにしか出せない答え、考えを話せたら良かったんじゃないか」と審査員からアドバイスをいただき、内面的にも自分自身と向き合う時間となりました。姿勢教室に通ったり、表情にも気を配るようになって。
自分の考えにこだわり過ぎずに周りのアドバイスを受け入れることで成長できると学びました。落選するというのは客観的評価ですから、自分の弱みに気づく機会になりましたね。
ー自分と向き合い続けて掴んだ泡盛の女王への挑戦で得られたことはありますか。
自分の成長も感じながら挑戦した「2024年那覇観光アンバサダー」の結果はファイナリスト。本当に悔しかったです。昨年とは観光大使にかける思いが変わり熱量を持って挑んでいたから、手ごたえを感じたんです。でもダメで。
沖縄県内の観光大使経験者とお話する機会を設けてもらい、貴重なアドバイスやヒントをいただくことができました。泡盛は苦手意識があって飲めなかったんですけど、琉球料理と泡盛のペアリングを提唱している泡盛伝道師の方を前任の泡盛女王が繋いでくれて、泡盛の飲み方を教えてもらえたんです。
それから泡盛が好きになって。「第38代泡盛の女王」の大会前日にも泡盛のイベントへ行き、3杯で帰るつもりが5~6杯飲んでしまいベロベロに。今考えても大会前日に取る行動じゃないですよね(笑)。
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そのファイナルで私の番号が呼ばれたときは実感がなくて、応援に来てくれた母の姿が目に入って涙が出てきましたね。観光大使へ挑戦するなかで出会った方、人との繋がりがあってこその選出だと思っています。
ー泡盛の女王としてどのような活動をしていますか。
県外に泡盛を広めることがメインの活動ですね。全国に泡盛同好会があるんです。東京はもちろん、北海道や仙台、大阪、広島や徳島にもあって。
その同好会主催のイベントで泡盛を楽しみながら、三線や舞踊などのパフォーマンスで沖縄を体感する会で、泡盛の女王3名のうち1名が参加してスピーチするんです。テーブル回って泡盛をPRする。スピーチは自分で考えるんですけど、教員やラジオパーソナリティの経験が生きていていると思います。
コロナ前は海外にも行く機会が多かったようですが、去年は台湾でのPRが1回だけあったそうです。私は台湾へ2回PRに行くことができ、クルーズ船に乗って台湾のお客さんに泡盛の良さをお伝えしました。
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泡盛の女王選考大会で、自分がやってきた「旅行」と「バスケ」に「泡盛」を掛けあわせて琉球ゴールデンキングスファンに向けて泡盛をPRするツアーを作りたいってプレゼンしたんです。
それを商品化したくて、旅行会社の方とお話をしています。実際に商品として売れるのか。プロの方にも見極めてもらう必要があるんですけど。
ー自分のやりたいことに挑戦できる秘訣はありますか
思考は現実化すると感じていて、やりたいと思ったことをまず口に出す。それが最初のきっかけになるかもしれない。自分の中で考えてるだけなら誰にも気づいてもらえないから。将来的に母校の教員になる!と周囲に話していたから、専門学校側から声がかかって教員になれました。
あと専門学校の授業で、大谷翔平選手も実践していたマンダラチャートを生徒に書いてもらって、私も生徒と一緒に書いたんです。すっかり忘れていたんですが、2026年にフリーランスになる!とド真ん中に書いてあって、司会業やラジオなどフリーランスとしての働き方が実現していて、自分でもビックリしました。
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喜友名さんへのインタビューで、目的を口に出すことで現実に近づけることができ、また挑戦の先にある出会いや学びが、未来を切り開くと感じました。小さな一歩がやがて大きな成果へと繋がる。
喜友名さんの体験が、キャリアに悩む方の小さな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。