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排便の人類史ー差別はなぜ「悪」になったかー
人類は、自分にとっての常識をゆるがされると、恐怖を感じます。この恐怖に根付いた他者への攻撃が「差別」です。具体的な害がなくとも「なんとなく怖いから」「なんとなく嫌だから」「不快だから」という理由で他者を害する差別は、現代社会では「悪」とみなされます。
なぜでしょうか。
ここで唐突ですが、うんこの歴史をおさらいします(うんこなだけに)。
かつて、人類に便所はありませんでした。
穴居生活をしていた古代人類は、そこら辺の藪を歩きながらうんこを垂れ流しておりました。なぜなら第一に、洞穴に便をためれば住まいはたちまち不衛生になり、すぐに病気にかかって死ぬからです。第二に、常に栄養失調気味で流動便であった彼らが撒き散らした液状のうんこは、ほど良い縄張りの目印となりました。そして最も重要なことですが、彼らは常に全裸であり、衣服といったものが現れるまでには、あと数万年の時が必要でした。
上記の三点には、そこらでうんこを撒き散らす明快なメリットがありました。住まいを清潔に保つこと。生活範囲を安全に保つこと。そして歩きながらの排便が快適であること。
しかしやがて食生活は改善され、栄養状態は良くなり、便の調子も変わっていきます。昆虫や木の芽を食べていた生活から、狩猟による動物性タンパク質中心の食生活へ。便は硬くなり、歩きながらの排便は困難なものへと変化していきます。
急務は肛門の安全確保でした。
人類は二足歩行に変化したことで「尻たぶ」を手に入れました。他の四足歩行の哺乳類とは違う、柔らかく大きく発達した人類の臀部は、容易な着座を可能としました。「長時間座れる」という、ただそれだけのことで、我々人類は大きな文明と文化を発達させてきたのです(引き換えに、腰痛その他の新しい疾病も手に入れました)。そして、常に空気中に晒して乾燥と殺菌が可能な、安全な肛門を失ったのです。
排便時に汚れた肛門を清潔に保つこと。これは現在でも人類の隣人である猫や犬がやる通り、舌で舐めて洗うことが最も簡単で安全な方法です。しかし残念なことに、人類の固い体では自分の肛門をなめて洗うことはできません。水辺が近くにあれば洗い流すことはできますが、濡れた体を拭いて乾燥させる必要があります。
そこで植物繊維の活用が始まりました。おそらく初めは大きな葉や茎を揉んで柔らかくして使ったのでしょう。やがて、文明の発達に従って「煮る」という調理方法から、植物の繊維を効率よく柔らかくする方法も発見されていったことでしょう。それらはやがて、紙や布の発明へと続いていく一歩となったはずです。
うんこが硬くなり、衣服を着るようになれば、あと必要なのは「便所」だけです。流れの速い大きな川が近くにあれば、垂れ流すことも可能ですが、すべての居住地に都合よく大きな川が流れているわけもありません。この頃、穴居生活を脱した人類は家を建て、農耕を始めようとしています。人口も増え、便所にたまる大量の便を、安全に処理する方法が必要とされていました。
ある時、薪を焼いてできた灰を混ぜると便の悪臭が控えめになることがわかり、その処置をした便を埋めた場所から、豊かな植物が茂るようになりました。
肥の発見です。
農耕が発達し、栄養が定期的に採れるようになり、人類は更に増えました。我々の祖先はそれまでにない豊かな生活を手に入れたのです。
うんこに関する常識は、この数百年で様変わりしてしまいました。
もう、自由に歩きながらうんこはできません。まず便が硬く、いきまなければ出ないし、出せば衣服が汚れます。さらに、便所は整備され、生活の場からは離されました。ためた便を活用する方法も見つかりました。
決まった場所に便をためることは、昔なら不衛生な悪でした。でも今では逆に、そこらに便を撒き散らすことが悪なのです。
うんこは便所でする。歩きながらそこらにしない。
この生活様式が世界中で「当たり前」になったのは、ほんの200年ほど前のことです。
さて、急に話は戻りますが、差別にもうんこと同じような変化の歴史があります。
かつて人類は30人ほどの小さな集落で生活をしていました。集落外の人間は基本的にすべて敵です。味方と敵を区別するためには様々な違いを見分ける必要があります。振る舞い、衣服、使う言葉、文化が違〜う。様々な要素を見分け、嫌悪感をおぼえることは、かつての人類にとって必須の能力でした。
少しでも自分たちの常識と違うことをすれば、それは即ち外部の敵であり、内部の者であれば害悪です。排除し、集落の平和を守る必要がありました。
それが「常識」であり、自分たちを守るたった一つの方法でした。
やがて人類はより多くの人間が集う共同体を作るようになり、それらは統合され村となり町となり、そして国となりました。文明は発達し、生活は豊かになり、情報は共有され、「差別」が発見されました。
差別できる側、つまり共同体の中で強者の側にいる人間が、弱者の側に配慮し、常識を改めて、ともに生きていくための平和な世界を作ることができるくらい、人類は豊かになったはずでした。衣服を着て歩き、トイレでうんこをして、紙やウォシュレットで肛門をきれいにできるほど、豊かになったはずでした。
多種多様な文化が混ざり合い「外部」というものの存在は曖昧になっていきました。いくはずでした。いくべきであると考えた人も多く存在しました、差別をした方がいいと考える人類の何億分の一の確率で。
それでも、人類の根本には、小さな集落で暮らしていた頃の常識が根付いています。なにしろ数万年VS数百年ですから、勝負になるわけもありません。今でも我々人類は縄張り争いを続け、他の集落を攻撃し、自分たちの集落を守るために差別をしています。差別をすることにメリットを感じ、差別を取りやめることにデメリットを感じている人類は数多く存在します。
我々人類が差別を手放すには、まだまだ多くの要素が必要なのでしょう。
差別はうんこと違って目には見えず、匂いもしません。そこらに放置されていても、辛いのは当事者だけで、差別する側は「古い常識」の中で平穏無事に暮らせます。しかし差別というものが、確実に人類の健康を蝕み文明から遠ざける行為であることは、本項を読まれた方ならするりとご理解いただけたことでしょう。
どうか、すべての人類がそれぞれに、好ましいと思える個室で自由にうんこができるような世界でありますように。
うんこを撒き散らす人が行いを改め、他人の排便を邪魔するような差別が、なくなりますように。
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