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中年男性が久々に見たウルトラマンZで泣いた話
今週5話目を迎えた『ウルトラマンZ』を見て毎週泣いている。最近のウルトラマンで記憶に残っているのは『ウルトラマンオーブ』で、あれは妙な話だったが大変好きだった。よく覚えているのは、主人公のガイが銭湯に行こうとする回だ。匂いの強い怪獣が現れて、銭湯が汚染されてしまう。この甲斐だけではないが、筆者はすっかりオーブの世界観にハマってしまった。そして今筆者はウルトラマンZの湯加減にハマってしまっているのだ。
フィクションというのは湯加減が必要だ、というのを最近はずっと考えている。暑い風呂に入りたいのにぬるい、サウナの後の水風呂が冷たくない、そういうのを指して人は「つまらない」と言う。違うのだ、それはつまらないのではなく、湯加減がよろしくないのだ。
今、東映はYouTubeのチャンネルで過去の作品を部分的に無料配信している。主にウルトラマンZに出てくる怪獣やロボット、先輩ウルトラマンが活躍する回をピックアップしているもの、そして平成ニュージェネレーションズと呼ばれるものを1話から3話まで。次から次へと出てくる新しいウルトラマンたちの個性を知るにはいい機会だ。
余談だが、改めて昭和の作劇を見ると、その当時に流行っていたものが類推できる。たとえば『ジラースの回』などは、流行の要素がオンパレードだ。ネス湖のネッシー、秘境へ行く博士、学会を追放された博士、スパイもの、湖畔のデートはカットされているけれども撮影はされたのかな。そして湖畔で毒を巻き魚をとる若者たち。現れた怪獣との戦いも、ウルトラマンの相手をするのはエリマキをしただけのゴジラだ。まずは熱線を使ったクレイ射撃でお手並み拝見、次に組み合ってのプロレス、余計な襟巻きを引きちぎり、それを布に見立ててまたドールの真似事をする(牛が見てるのはマタドールじゃない、ぬだ)。しまいには倒されたジラースと博士のカットバックで結構な尺をとる。孤島で動物に過剰な思い入れをして狂ってしまった博士といえばドクターモローだが、ジラースの回の放送はちょうど77’年にモローが日本で公開された年の翌年だ。閑話休題。
ウルトラマンオーブで良かったのは、主人公のガイが風来坊のくせに風呂好きで、ゴミもちゃんとゴミ箱に捨てるタイプだってことだ。そう言う好感度は地味で目立たないが、逆をやれば後々まで残ることがわかる。風呂嫌い、ゴミをそこらへんに捨てる、そんな前提を見せられて想像できるのは「そいつは社会復帰できのか?」ってことくらいだからだ。
本題に戻ろう。再々にもウルトラマンZは1話から5話まで期間限定ながら無料で配信されている。YouTubeでもNetflixでもAmazonプライムでも、なんでも見ることができる。どの話数もいい湯加減なのだが、その湯加減を少しだけ解説しよう。
・運命の二人が雑に出会ってしまう。
洋物ドラマの『SUIT』なんかを見ている人には共感してもらえるはずなのだが、やばい二人が出逢って数分で「あーこれ運命の相手じゃーんよ」と気付ける作品は名作、そうでしょう。この作品には二人のダメ人間が現れる。一人は熱血ダメ人間、そしてもう一人は熱血ダメウルトラマン、え?キャラがかぶってる?大丈夫、身長が違うから。それにどうやら、この次元のこの地球には怪獣退治の専門家は彼ら以外にはいないらしい。
足りない二入が足りない世界を救うために、アニキたちの力を借りながら、地元の防衛と復興に努めるんだ。やり方は泥臭い、それでも彼らは少しずつ成長していく。
全体を通してゆるいテンションが流れる『ウルトラマンZ』は、印象に反してカット割りは多い。シーンの詰め込みも多く、キャラクター同士の関わり合いのラインは常に双方向に走っている。逆に数少ない明らかなギャグシーンも謎解きの伏線に使うなど余念がない。とにかくリッチな作りをしている。
この脚本のリッチさに、筆者は涙するのだ。この世界には怪獣がいなかった、だから対怪獣用の機械は、筒に手足をつけたようなアナクロなロボットだ(おそらくは作業用として開発されたものを、強引に格闘へと転用しているのだろう。しかし二号機は怪獣との戦いによって得られたデータで作られた、怪獣のような姿をしたロボットだ。おそらくその異様は怪獣への威嚇効果も計算されている。出撃時にはミニチュアの中に必ず人が映り込む。なぜならそれは運用されているからだ。
話しだせばキリがない。画面に損壊された人体を映さずとも、想像を絶することが起こったと知らせるための特撮の工夫。毎回必ず一度は入る、前の回には描写されなかった特撮描写。予算が少ないのか多いのかなんてことはわからない。ただわかるのは、この現場の人たちは、とにかく全ての作品へのリスペクトが半端ない、ということだ。
今流行ってるものなど、この作品には必要ない。小さな島宇宙の塊をいくら模してもそれは紛い物に過ぎない。子供たちへ伝えるべきことを詰め込めば、作品は自然とそうなっていく。
このnoteを読んで、今まで気にしていなかった作品を見る機会に出会ってもらえたら嬉しい。自分の作品もこのくらい熱く語りたいものだ。
R.I.P 吹原幸太 氏へ
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