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歌詞について②

昨日は子音と母音の使い方について書いた。

ちょっとなんだろうな、ラーメンの作り方を書くときに、麺の加水率について説明し始めるような感じになってしまったような気がする。なので、今日はもう少し抽象的な話をしたい。

あなたは歌詞で、何がしたいのだろうか。例えば韻を踏みたいのかもしれない。

韻を踏みたい

歌詞の華といえば、やはり韻を踏むことだろう。漢詩の時代から、読んだときに発する音で韻を踏むのは気持ちがいいものだ。では、あなたは歌詞で韻を踏みたいのだろうか。


最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

高校の教科書に掲載されることになったフジファブリックの『若者のすべて』は、サビの入りで綺麗に軽い韻を踏んでいる。

SAI GO NO / HANABI NI / KOTO SHIMO / NATTA NA

NAN NEN / TATTE MO / OMOI DASHI TE / SHIMAU NA

韻を踏むメリットは、メロディと言葉の間に挟まるノイズが減り、それらが一体となって聴衆の耳に届くことにある。同じ音階に同じ音が繰り替えされることで、頭の中に浮かぶ景色が濃く鮮明になってくのだ。

引用した二列八節は、アクセントのかかる部分でそれぞれに韻を踏んでいる。

前段の二節は母音「あ」を揃え、「最後の」「何年」「花火に」「経っても」と、それぞれの言葉に空間的な広がりを与えている。

後段の二節は子音と母音「も」と「な」を合わせて柔らかい雰囲気を出しながら、そこへ「こと“し“も」「おもいだ“し“て」と前後を逆にした子音「し」を差し込むことで、切迫感を醸し出している。

きっと、こういうふうに韻を踏めたら、気持ちの良い歌詞が書けるだろう。

どうやって踏むのか

歌詞には文字数の制限がある。いくら音韻を揃えようとしても、しっくりとくる単語がそう易々と見つかるわけではない。しかもあまりかっちり揃えすぎるとラップのようになってしまう。揃えすぎた韻は主張が強い、曲が主体であるならば、押韻は控えめにするべきだろう。

そこで必要となるのは、歌詞の世界観だ。歌詞の世界観がひとところに留められていれば、いくら踏めるからといっても無闇な単語は使えない。

『若者のすべて』は夏の終わりの日常生活を描いている。語り手もおそらくは若者か、もしくは若者を少しすぎたあたりの年代で、別れを経験し、再会を願っている。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ちつかないような 気がしている

例えば、この二列目で無理に単語ずつに韻を踏んでしまえば、世界観が崩れてなんの話かわからなくなる。だからそれぞれの単語では韻を踏まず、節の最後だけ母音「あ」で終わらせて、最後に「う」で締めている。

真夏のピークがさっTA 天気予報士GA テレビで言ってTA
それでもいまだに街HA 落ち着かないようNA 気がしていRU

脚韻的に揃えておいて、位音だけ別の子音母音を入れることで、その部位を際立たせることができる。これも覚えておいて損はないだろう。

韻、踏まなきゃいけないんすか?

そんなことは全くない。書きたいように書いて、語尾の母音がぜんぜんそろっていなくても誰も困らない。もしもあなたが「そういう揃い方を気持ち良い」と感じるのであれば、書いている歌詞に、ちょっとしたスパイスとして足してみても良いのでは? と思うだけだ。

歌詞は自由だ。ただ「歌われること」だけが歌詞を律する手がかりになる。

例えば、音韻が揃っていない歌詞や、音を伸ばす部分が「あ」ではない歌詞は、歌い手にとっては苦しいものになることが多い。「あ〜」と大きく口を開けた方が気持ちよく歌える。口を窄める「お」「う」や、口を横に開く「い」「え」で長く大きな音を響かせるのは至難の技だ。

例えばLiSAの『紅蓮花』は、その難しさを狙って作られている可能性がある。ここぞという伸ばすときの語尾が「う」「え」「お」に揃えられており、その苦しそうな軋みが、歌の魅力を増す構造になっている。

表現のために利用できる手法として、音韻や、母音と子音の使い分けはある。

今日も具体的になってしまった。明日はもっと抽象的にしたい。



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