ミザンスとは何か
「ミザンスって何ですか」
と、先輩の演出家を詰問したのは、ぼくが公演を終えてしばらく経ってからのことだった。実を言えば批評家氏に何かの媒体で「彼はミザンスがなっていない」と書かれて、納得ができなかっただけなのだが。駅前にある古い喫茶店の窓際、背後のカウンターで新聞を読んでいる老齢の店主に気を使いながら、ぼくは声を抑えて息巻いた。
「三角構図も意識してるし、役者が横並びになったら必ず奥行きを意識して配置し直してます。役者だって言う通り動いてくれた。じゃあミザンスって何なんですか?」
ミザンスとは、演出全般を指す言葉だが、日本では特に「舞台上における役者の立ち位置」をあらわす。もともとはフランス語で、映画批評用語として輸入されて、この20年くらいで「舞台用語」として当たり前に使われるようになった。最近では観客も「あの演出家はミザンスがうまい」と使うほどだ。批評家氏がどのような述懐でもってぼくを傷つけたのかは置いて、先輩はぼくが「ミザンス」を誤解していると見抜いたようだ。なぜなら彼も、ぼくの舞台を見ていたからだ。
「率直にいえば、君の作る舞台では役者がそこに『立たされて』いた」
そこに立つ理由と原因
「 たとえば君が「立っている」とする。そこに立つ前にも時間と空間はあり、立ったあとにも時間と空間は存在する。君は歩いていて、いまそこに「立ち止まった」。なぜだろう。何か理由か、もしくは原因があるはずだ」
そこが現実世界で自動販売機の前ならば、君には
・喉が渇いていた
・小銭を持っていた
・その後何かを飲む時間があった
等の理由と原因があるだろう。あるいは君は金に困っており、立ち止まったあとにしゃがみ、自動販売機の下を覗き込むのかもしれない。推測はいくらでもできる。なぜならそこに自動販売機があるからだ。
ところが舞台では、君が役者だとすれば、しばしば自動販売機のないところで喉も渇いていないのに歩き出し、そして立ち止まらねばならぬ時が訪れる。
なぜだろうか。
「ミザンスって何ですか」と聞いた君や、どうにもミザンスがうまくいかないと感じている演出家のほとんどが、同じ理由でそれをする。
「わからない」は不安を呼ぶ。不安は安定を求める。
「同じ場所に立った役者が延々とセリフを言うだけの舞台なんてつまらないじゃないですか、不要な緊張感や凡庸な退屈さはむだですよ。だから三角構図や横並びの回避によって観客の感覚をコントロールすべきだと思うんです」
これは、日本人が演劇に関わる限り、永遠につきまとう宿痾である。ぼくたちは日常生活で歩き回りながら聴衆を説得しないし、そもそも行列に並ぶのが大好きで、パーソナルスペースが広いわりには狭い場所に密集する生き物だ。だから舞台上に放り出せばすぐ横並びか縦並びに立って、動けと言われたら言われた通りに動くけれども「自分が安全な距離感」は保ち続ける。なぜ「そこ」に立っているのか、誰もわかっていない。
放っておけば、凡庸で、退屈で、不要な緊張感のある舞台ができあがる。だから対策をとる、役者を動かし、配置を変えて、ドラマを盛り上げる。そのためにミザンスをつける。演出家は役者の位置を決めて、役者はその位置へと動く。
そのために参照されるのは絵画、映画、そして他の舞台における構図の理論だ。
これが実は罠なのだ。演劇というものは、その「ジャンル(様式)」を観客の側が特定しづらいという構造を持っている。それは「コメディ」や「ホラー」といった他メディアに翻訳可能な「ジャンル」ではない。たとえば役者が横を向いて喋っている。セリフの途中で客席の方を向いて喋る。観客は「そういうジャンルの作品か」と確認し、以降は「そのように作品を受け止めようとする」
観客への情報提示量=ジャンルの差異
演劇のジャンルは、植物の進化系統樹に似ている。動物のように末広がりではなく、網目のように互いが互いを参照し、入り混じり、また分岐して別の様式と融合する。だから特定の要素を取り出して「これがあるからそれ」といったジャンルの特定はできない。と言うよりは、やってはならない。なぜならそれは種の誤同定を招くからだ。
演劇のジャンルとは、その演出がもたらす「情報の開示量」のことだ。観客は開幕から役者の向き、立ち位置、喋り方、照明音響装置を見て、その後の情報開示量を推定する。それが何も考えず開示される情報を受け取るべきものか、複雑な隠喩を読み解きながら結末まで何も開示されないものか、どのジャンルに属する性質を持つ作品であるかを、無意識に予想するのだ。
「ぼくは、君の作った舞台を見て『やりたいことはわかるけど、うまくやれてないなあ』と感じた。役者にもうまく意図が伝わっておらず、そこに立つ意味が見えていない。おそらく件の批評家氏もそう感じたのだろう。原因は簡単だ、君がつけたミザンスは、君の作品にふさわしくなく、役者たちにとってもふさわしくないものだった」
先輩は、結論だけを手短に伝えてくれた。
「君はね、君の作品のためのミザンスを作り出さなきゃいけない。『成ってない』ってのはそういう意味だよ。借り物じゃない理論を持てば、それは君というひとつのジャンルになる」
ぼくは目をふせ、メニューをちらりと見て「何か飲みますか」と言った。すでに二つのコーヒーカップは乾いていた。
「二杯目、おごりますよ」
先輩は席から腰を浮かし、カウンターへ声をかけた。
「おかわり、同じの二つ」
新聞を読んでいた店主の答えも待たず、ぼくはカバンからノートとペンを取り出した。
「くわしくお願いします」
愚痴を話すだけのつもりだったのに、コーヒー二杯で学ぼうとはずいぶんケチな授業料だ。先輩は笑いながら話を始めた。
「じゃあ、古典から紐解こう、ギリシャ悲劇はどんな劇場で行われていた?」
「円形、劇場、ですか?」
この続きは、またどこかで。