『現在対未来、死んだ猫と明日の五千万円』 令和座第四回公演『クリエイター偏差値35』評
麻草 郁
筆者は考える。人は誰もが言い訳を抱えている。昨日寝てなくて、間違えても許してくださいね、この前はうまくいったんですけど、ちょっとよくわからなくて、もう一回いいですか? そう繰り返しているうちに、人生は黄昏を迎え、そしてやがて消えていく。筆者は考える。人間には二種類いる、やる前に言い訳を出すタイプと、やってから言い訳を考えるタイプ。人類の歴史というものは、およそこの二種類が相互に尻尾を食い合いながらひり出した、螺旋形に伸びた巨大なクソ、あるいは言い訳の記念碑である。
本作は、その記念碑に飛び蹴りをかまし、人類史相手に喧嘩を売り続けている男と、その仲間たちの偉大なる挑戦の記録だ。
二〇二二年十月に上演された舞台劇『クリエイター偏差値35』は、劇作家 浅間伸一郎 の主宰する劇団令和座の第四回公演だ。約一万本の脚本を書きながらパッとしない脚本家、成田由紀夫(蔵重智)の事務所に、事務員の山崎法子(西田真実子)、契約を結んだばかりの新人脚本家、岡本銀之丞(松永和馬)、退職を願う脚本家[野口ちとせ(片岡奈央乃)、映画監督の倭島兼一朗(佐藤圭右)、女優、桃山真弓(犬吠埼にゃん)、そして正体不明の女[スターロードさやか/神秘的な女(守谷直子)]が現れ、噛み合わない議論を繰り広げる数時間を描いた作品である。
この公演は、自然主義的な喜劇に分類される作られ方をしている。演者たちは押さえた演技をして決しておどけることなく淡々と物語を進めるが、トリックスター的な存在であるスターロードさやかの登場によって、登場人物たちの心は揺り動かされ、分断され、振動し、そしてムラムラする。効果音や劇伴はまったくないものの、セリフの音量や間を使った巧みな演出が、笑ってもいい雰囲気を後押しする。笑いながらやがて、観客の目には対立軸がはっきりと見えてくる。脚本を書くことしか頭にないベテランの成田と、脚本を書いて何者かになりたい新人、岡本。彼らの間には、深くて暗い価値観の溝がある。
それは、やってしまった世界/現在と、これから起こるかもしれない出来事の世界/未来との対立だ。やってしまった側の成田にとって、物事はすべて過ぎ去るだけの現象に過ぎず、彼の意識は常に「いま」「ここ」にある。一万八十二本もの脚本を書きながら世に認められていないのは、彼の書くものが、その場限りのムラムラを喚起するための消費物としてしか世に理解されていないからだろう(演じる蔵重智は成田の発作的な発言や行動に生物としての一貫性を持たせることに成功しており、そこにはインプロバイザーとしての蔵重のキャリアからの強いフィードバックと、その特性を活かした演出の見事な融合があったのではないかと想像させる力場が働いていた)。
一方の岡本は未来を志向し、これからやるかもしれない側の人間だ。彼は一本の脚本を仕上げるのに一年もかけたが、その評価は「よくまとまっている」の一言だった。彼は現実においても、出来事のつながり、人物の過去などについてこだわりを見せる。それが彼の発想を縛り、行動を縛り、ひいてはつまらない脚本の原因になっているとしても、彼はそのこだわりを捨てられない。なぜなら彼は「未来」を見ているからだ。未来がもし「いま」「ここ」の先にある現実だとすれば、目に見える「いま」「ここ」には記述可能な形が必要だ。起こっている出来事がでたらめであれば、未来もまた予測不可能なでたらめになるからだ。
スターロードさやかは、成田にとっての福音である。不条理劇の幽霊のように「劇的」な存在であり続けるために、彼女は体を壊しながら脚本家へ向けた振動を発し続ける。体を壊し、精神を病み、薬物に手を出すことで、自然主義の世界で彼女は長く生きられないことを観客は強く理解させられる。あんなにも輝いていた日々が、黄昏に消えていく。死んでしまった猫は、帰ってこない。
物語は未来を見る者たちによって進められ、でたらめに見えた出来事は理屈をともなって収束し、やがて事務所からは成田とさやかを残して誰もいなくなる。「いま」「ここ」を狂おしいほどに求めれば求めるほど、人はひとところにとどまることはできない。人類は進む、それが進歩と調和の未来なのか、戦争と破壊の未来なのかは(およそ後者になりつつあるが)、未来に進む者にしかわからない。ただひとつわかることは、現実に生きる私たちもまた、文字と言葉によって現在と未来を往復できるということだ。
劇作家である浅間伸一郎は、間もなく次の舞台の準備を進めている。また彼が巨大な何かをぶんなぐって暴れることを、私は期待している。
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