アフリカの宗主国をすべて国別に挙げ、(独立年)を付けてください。
・アフリカの主な宗主国とその独立年を以下に示します。
イギリス
エジプト(1922年)
スーダン(1956年)
南アフリカ(1910年、完全独立1948年)
ナイジェリア(1960年)
ケニア(1963年)
ザンビア(1964年)
ウガンダ(1962年)
タンザニア(1961年)
フランス
アルジェリア(1962年)
モロッコ(1956年)
チュニジア(1956年)
セネガル(1960年)
コートジボワール(1960年)
マダガスカル(1960年)
ポルトガル
アンゴラ(1975年)
モザンビーク(1975年)
ギニアビサウ(1973年)
カーボベルデ(1975年)
ベルギー
コンゴ(1960年)
ドイツ
ナミビア(独立1990年、当時の南西アフリカは1915年からイギリスの管理下に)
タンザニア(1945年、当時のドイツ東アフリカは1919年にイギリスに譲渡)
カメルーン(1960年、フランスおよびイギリスの委任統治を経て独立)
イタリア
リビア(1951年)
エチオピア(1941年、イタリアによる占領は1936年から1941年)
ソマリア(1960年)
スペイン
赤道ギニア(1968年)
西サハラ(未解決、モロッコが実効支配)
スペイン領モロッコ(1956年)
これらの国々は、アフリカの多くの地域を植民地化し、各国の独立は20世紀中に行われました。
・西欧列強がアフリカに進出し始めたのは何年頃でしょうか。
西欧列強がアフリカに本格的に進出し始めたのは、19世紀の中頃から後半にかけてです。この時期は「アフリカの分割」と呼ばれる現象が起こり、1880年代から1900年頃にかけて、各国が植民地獲得を競い合いました。
具体的には、1884年から1885年にかけて行われたベルリン会議が重要な転機であり、この会議でアフリカの植民地化に関する国際的な合意が形成されました。この時期にイギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルなどがアフリカの大部分を植民地化しました。
・一番最初はどの国が、アフリカのどの国に進出しましたか。
アフリカに最初に進出した西欧列強の一つはポルトガルです。ポルトガルは15世紀からアフリカの沿岸地域に探検を行い、特に西アフリカのガンビア川やカーボベルデ諸島、さらにアフリカ南部のアンゴラ沿岸に進出しました。
具体的には、ポルトガルは1487年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回り、これがアフリカへの本格的な進出の始まりとされています。その後、ポルトガルは16世紀にはアンゴラやモザンビークの沿岸に要塞や交易拠点を築きました。
・植民地獲得の狙いは何だったのでしょうか。
植民地獲得の狙いは多岐にわたりますが、主な目的は以下の通りです:
資源の獲得: 植民地には豊富な天然資源(鉱鉱、農産物、木材など)があり、これを手に入れることで母国の経済を支えることが狙いでした。
市場の拡大: 新たに獲得した植民地は、母国の製品を販売する市場として重要視されました。これにより、商業活動を活性化させることが目的でした。
戦略的な利益: 地政学的な要因も大きく、特定の地域に基地を設けることで他国との競争において優位に立つことが狙われました。
国民の安全と影響力の拡大: 植民地を持つことで、国の影響力を拡大し、他国に対する安全保障を強化する意図がありました。
文化的・宗教的な理由: 一部の国々は「文明の使命」として、自国の文化や宗教を広めることを正当化し、教育や医療の提供を通じて現地の人々を「救済」するという観点もありました。
これらの要因が複合的に作用し、西欧列強はアフリカを含む多くの地域で植民地を獲得していきました。
・「文明の使命」とは?
「文明の使命」とは、特に19世紀から20世紀初頭にかけての西欧列強が用いた概念で、自国の文化、価値観、宗教を他の地域に広めることを正当化するための思想です。この考え方には以下のような特徴があります。
文化的優越性の主張: 西欧諸国は自らの文化や制度が他の文化よりも優れていると考え、その価値を広めることが社会的な責務であると信じました。
教育と宗教の普及: 植民地において教育制度やキリスト教の教えを広めることが、現地の人々の「救済」につながるとされました。これはしばしば「野蛮人」や「未開人」とみなされる人々に対する恩恵とされました。
経済的・政治的な動機の隠蔽: 実際には資源の獲得や市場の拡大が重要な目的であったにもかかわらず、「文明の使命」という理念がその行動を正当化するために用いられました。
このような思想は、植民地支配における倫理的な正当性を主張する手段として機能し、植民地化の過程で多くの地域に深刻な影響を及ぼしました。
・日本にも来ていますか。
はい、日本にも「文明の使命」という考え方が影響を与えた時期がありました。特に明治維新以降、日本は近代化と西洋化を進める中で、以下のような要素が見られました。
教育の普及: 西洋の教育制度を取り入れ、国民に対して教育を広めることで、国力を高めようとしました。この過程で、欧米の価値観や文化が紹介されました。
アジアにおける影響力の拡大: 日本は、特に日清戦争や日露戦争を通じて、アジアにおける影響力を強めるとともに、他のアジア諸国に対しても「文明の使命」を訴えるようになりました。
自国の文化の誇示: 西洋化の過程で自国の伝統文化や価値観を守る動きもあり、これが「近代化と伝統の調和」という形で現れました。
このように、日本も近代化を進める中で、文明の使命という理念の影響を受けつつ、他国との関係を築いていきました。ただし、日本自身が植民地支配を行う側に回ったこともあり、アジアにおける支配と影響力の拡大は特異な歴史を形成しました。