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ああ、あれは昭和だったんだね!(3)

ビルディング 
そびえめぐりて
大都会
とよむ (響む)
まなかに
美しく
強く
正しく

校歌はこのように始まる。

中学校は名古屋駅に近い場所にあった。
ビルの谷間に、校舎と体育館がグランドを確保しようと、互いに遠慮しながら建っていた。
校舎は3階建てで、ベランダがついている。ベランダには、蒸気で弁当を温める器具があった。用務員が練炭を毎朝運んでいた。給食の冷たい牛乳を飲みながら、生徒は暖かい弁当を食べる。牛乳は米と合うわけがない。
体育館は2階建てで,1階には、更衣室とピロティーがあった。ピロティーはコンクリートをうった場所で、ちょっとした部活のトレーニングができた。2階は真新しいフロアの体育館だった。
グランドは狭かったが、それでも、ハンドボール部やバスケット部やバレーボール部がひしめきあって練習した。ちなみに、ハンドボール部は、体育授業で生徒をいじめる教員の指導で、全国優勝を成し遂げていた。

校歌の「清く正しく美しく」が校訓だ。1学年が100人ほどの小さな学校だったが、「名古屋の学習院」と呼ばれることがあった。皇族は通うことはなく、ただ生徒はおとなしくしていただけだ。他校は荒れている学校も多く、ガラスが割られるとか、廊下を自転車で走る生徒がいるという話を聞いていた。名古屋近郊の蟹江や弥冨から寄留してくる生徒もいた。わざわざ来ても何も利点はないのに。当時はやった胸の万年筆やパン代を盗まれたので、そこまでの学校ではなかっただろう。学習院だって悪い奴はいるはずだけど。

教員は個性的だった。
「悪いことはするな。人に迷惑をかけるな。」と言い続ける人。彼はテストの解答を読むとき、「1番の答えは、イチーー」というようにトーンを変えて数字をのばして読んだ。天才クイズのまねだったと確信する。
「徳川綱吉は、犬が好きでなあ。人間より大切にしたんだがや。」と名古屋の庶民を演じる人もいた。
描かれた絵画を逆さまに見ながら、いい絵だ、と評価する人。彼は生徒がふざけると、「ポコペンだ!」と叫んで、生徒とともにその生徒を叩きにいった。
バレーボール部の顧問は、「おいお前、何故そこでブロックしないんやー」
「お前」を上げ調子で言って、全体は間延びした関西弁を使った。それでも部員は彼の言葉に従った。ライバル校に負けたとき、部員全員正座させられた後、一人ひとり、頭をげんこつで叩かれたのは唾棄すべき事件だと思う。

昭和の教育だった。「先生」は神様だった。

男子は、坊主頭だった。ところが、生徒集会が行われ、長髪OKとなった。
発言者は、「スコットランドでは、男性がキルトというスカートをはく。男子は坊主ではなく、長髪で何故いけないのか。」と言った。キルトという言葉に驚いた。何故、そんなことを知ってるの、と心がひっくり返っていた。後日、キルトの歴史を知った。寒いスコットランドで羽織るのが習慣であった毛布は、工場では邪魔になったので、腰に巻かれることになったのがキルトの起源だった。なんだ、実用的スカートだったのか、先輩ちょっとちがったね、と残念な気持ちになって、テンションが下がった。英語では、魂が下がった、と言う。

光化学スモッグ注意報が発令されました。

夏休みに校内放送が流れた。

校庭にいた生徒はピロティーに逃げ込む。周りの空気は、少し白く感じられた。のどをやられると言われていたので、生徒は怯えていた。放送があった後、練習は中止された。

学校からの帰り道、昆布屋さんで、ビンに入ったチェリオのオレンジを飲む。30円で、コーラのビンより量が多いのがよかった。ほとんど毎日チェリオが飲めるほど、小遣いも増えていた。

饅頭稼業の収入が増加したように、他の商売も栄えていた。帰り道はビルばかりになっていった。私立中学へ入った友人の家はビルディングになっていた。盲腸でお世話になった病院も、子供貯金を預かる銀行も建て替えられていた。自宅近くの恐怖の倉庫も、街灯がついたので、その前を走る必要がなくなっていた。

5人家族は週末になると「一宮ドライブイン」まで出かけた。ウエイトレスにテレビを「巨人の星」に替えてもらって、星飛雄馬を見ながら、パイナップルがのったハワイアンポークステーキを頬張った。ライス2皿とともに。昔の贅沢が普通になっていく。

中学2年生になっていた。

高校へ行くために相対評価の評定を気にしていた。バレーボールのサーブを100本単位で打って手首の内側が赤くはれた。教員の言うとおりに練習していたのだ。腫れたままの手首で放ったサーブは何本ものサービスエースになったけれど、部活にしても、勉強にしても、こんなやり方はちょっと違うな、と思っていた。毎日が意味があるようでなかった。

2年前に大阪万博があった。家族で見に行ったが、人込みを見に行っただけだった。万博のテーマは「人類の進歩と調和」。もうこれ以上進歩はないから、自然や人間性と向き合うのだ、と理解した。さらに、世界は科学技術によって置き去りにされた、自然の変化や人間性の喪失を考えざるを得ないのだ、と考えた。

万博が終わった後から、白黒ではなくて色のついたテレビを、「木枯し紋次郎」と一緒に見続けた。紋次郎みたいに長い楊枝を口にくわえて、「あっしには関わりのないことでござんす。」と呟くけど、どうしてもいろいろな問題に関わってしまうことになった。しかしながら、万博以降、テクノロジーはさらに進化して複雑になる。比例するように、自然や人間の問題は大きくなって人の手に負えないものになっていった。

1972年だった。


沖縄返還があった。
沖縄はアメリカの統治下から日本の統治下になった。車の右側通行も通貨のドルもそのままだった。基地もそのままだった。ひめゆりの塔の沖縄は、サトウキビ畑のザワワを聴きながら、相変わらず、苦しんでいた。

ミュンヘンオリンピックがあった。
男子バレーボールで、日本とブルガリアは死闘を繰り広げた。夜中の中継を頑張って見ていたが、推しのセッター猫田をひたすら応援していたのだ。
そんな中、テロ組織「黒い9月」がイスラエルの選手やコーチを殺害した。スポーツの祭典に、メキシコオリンピックと同様の人種差別の影が広がっていた。

国内では、光化学スモッグ注意報が頻繁に発令されていた。水俣病(熊本県)、新潟水俣病、イタイイタイ病(富山県)、四日市ぜんそくなどの公害が、高度経済成長の陰で大問題となっていた。国会議員は慌てふためいて公害に関わる法律で対応するしかなかった。

田中角栄が出現して、日本列島改造論をぶち上げていた。小学校しか出ていないと自慢した首相は、「まあ、そのー」という間投詞を使って、人と経済を地方に分散させる重要性を語っていた。青函トンネルの工事継続や新幹線の新路線建設など、地方の活性化を考えたが、地価高騰、物価高騰で、頓挫していく。しかし、彼のだみ声は人々に夢を与えたのだと思う。だけど、「田中金脈」は残念だよね。

日本が国際社会の中に組み込まれていくのを感じていた。日本は、アメリカの背中を20年遅れで追いかけていたのだ。

日本のアイデンティティーが問われていた。
アイデンティティーなんて言葉は知らなかったが、そのようなものを探す年齢になっていたのだ。

日本も、自分も、どこから来て、どこにいて、どこに向かおうとするのか。

(続く)

To be continued.

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