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短編小説:シンガポール・スリングは、希望のフレーバー
午後11時を過ぎている。街は寒気に飲み込まれようとしている。
わたしは、地下鉄を降りてアパートへ急ぐ。
今日も担当の高校をまわって、進路指導部や学年の教員に各校の模試分析や学習調査分析を説明した。新しい教材と教員向けセミナーの案内もした。教員とのつながりも大きいので、世間話もしなければならない。そんな緊張の時間を終えた後、会社に戻ると、今日の報告と明日の資料作りの仕事が待つ。
退社できるのは10時を過ぎるのが当たり前になっている。教員や生徒向けの入試説明会があれば、日付を超えることさえある。
同期の仲間も少なからず辞めていった。わたしは何とか生き残っている。何度も辞めたいと思うけれど。
急ぐわたしは、人影のない歩道の先にBAR ESPEROという緑色の立て看板を見つける。看板の後ろには階段の入口が見える。低層ビルの二階で改装工事をしていることには気づいていたが、バーになったのか、とわたしは少し驚いてしまう。
ESPEROは「希望」を意味する。緑色も「希望」を意味する。
教えてくれたのは、アイツだ。別れたアイツは懐かしい思い出になってしまった。わたしは、少しだけ胸が痛んだ。
立て看板が好奇心を誘う。
たまにはいいか。少しだけ寄っていこう。
帰りたいのを忘れてしまい、階段を上っていく。
階段の左側に白い壁がある。そこにトロピカルな酒や果物が描かれている。階段の先にはオレンジ色の床が見える。入口は白い開き戸で、両開きだ。
暖かい店内には黒光りする長いバーカウンターがまっすぐ伸びている。BARは長い板のことだ、とよくわかる。10脚ほどオレンジ色の椅子が並ぶ。右側にテーブル席がいくつか並んでいる。
店内は薄暗い。カウンターの奥にはたくさんの酒瓶が並ぶ。壁は白く、床にはダイヤのような幾何学模様が見える。天井は丁寧な板張りで、ハート形の薄茶のうちわが、いくつかぶらさがっている。
シンガポールのLONG BARだ、と思う。
コピーしたみたいだ。
客はまばらだったが、わたしはカウンターの入口に近い席に座る。あまりこのような酒場に慣れていないからだ。しかも、独りだった。
1500円のシンガポール・スリングを頼んだ。シンガポールでは4000円ほどしたのを覚えていた。
去年の夏、お盆休みを利用して、高校のバレーボール部の仲間4人でシンガポールを旅行した。卒業10年を祝う旅行ということで、部活の思い出を語り合いながら、シンガポールを満喫した。
リトルインディアのホテルに泊まって観光地を巡った。ホテル周辺には黒い顔の人がたくさんいて、4人とも引いていたのを思い出す。定番のマーライオンは小さかったが、セントーサ島のマーライオンは大きかった。シンガポール植物園のいろいろな蘭、マリーナベイ・サンズのプール、ナイトサファリ・・・いろいろな場面が思い浮かぶ。
一番蒸し暑かった最後の夜に、LONG BARに入った。観光客が多くて驚いたが、このバーが発祥のシンガポール・スリングの値段は衝撃だった。でも、バーの雰囲気は最高で、床に落としたピーナッツの殻を踏みしめる音は新鮮だった。
LONG BAR を模したBAR ESPEROは、独りの客には、自省の場となっていた。クラッシックが小さく流れて、シェイカーやグラスの音と小さな話し声がたまに聞こえるだけだった。
シンガポール・スリングは、女性が人前で酒を嗜んではいけない時代に、ジュースに似せて、女性のために考案された酒だ、と現地で教えられた。女性のわたしは、そのオレンジ色の酒をストローで吸いながら、心が開いてくるのを感じる。
LONG BARの名前の由来は、創業の店にひどく長い板のバーカウンターがあったことだ、とこれも現地で知った。
LONGといえば、アイツが言っていた。
LONGには、「長い」という意味だが、動詞で「切望する」という意味もある。首を長くして待つ、ってこと・・・冗談。遠く離れた人に会いたい、とか、懐かしい場所に戻りたい、ってことなんだよ。長い距離のことだね。
アイツの顔が思い出せない。少しばかり酔ったのか。それとも、アイツを記憶から消そうとしているのか。
わたしは、LONG BARもBAR ESPEROも「希望の場所」だ、と納得しかけている。
「女性のための酒」を喉に送り込みながら、わたしは開いていく心の中で、「希望」について考える。
ハードな仕事のせいで、希望と言う言葉さえ忘れていた気がする。入社前は希望で一杯だったが、今は希望のかけらもない。わたしは何を希望していたのだろうか。希望って何だったかな。
映画のセリフが降りてくる。ずっと見ていない映画なのに。
「希望は素晴らしい。おそらく最高のものだ。希望がないなんてあり得ない。」
さらに、昔読んだ英語長文が心に入り込む。完全に忘れていたはずなのに。
「希望がほとんどない場合は、希望を探せ。全くない場合は、希望は自分で作れ。」
今のわたしは、希望を作らなければならないのか。
そうだ。今のハードな状況から逃げないで、希望を作るしかない。
忘れていた、入社当時の希望を思い出す。
高校生や高校のサポーターになる。
わたしは、次へ、次へ、と前進するしかないようだ。
希望を探して。希望を作って。
わたしは、BAR ESPEROを出る。
寒気に包まれた真夜中の街へ出たとき、わたしの心が温まっていることに気づく。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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