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満ちてゆく

12月初めの夜更け、しばらく会えなかった君が僕の部屋をノックする。僕は卒論の原稿を書いていたが、書く手を止めて君を迎え入れた。ベッドの端に座ったとたん、君は話し始める。いつものことだが、テーブルの横で僕は少し身構える。

私、ロサンゼルスへ行くの。留学してもっと勉強したいから。脳のメカニズムから言語を見直したい。だから、アキラ君ともお別れなの。

君は小さな声でゆっくりそう言った。唖然としたが、そこまで動揺しなかった。君のことはよくわかっているつもりだったから。そして、君の表情に寂しさが見て取れた。それが救いだったのかもしれない。

君は僕とは性格が正反対だったから付き合うようになったのだと思う。君は優しい外見に似合わず、好奇心が強く、疑問を持てば必ず行動するタイプだった。僕が何か話せば、はっきり自分の意見を言った。時々口論になることもあった。のんびりした僕は君に刺激を受けて行動的になろうとした。3年の日々で君に似てきたようにも思える。

ロサンゼルスのカレッジのこと、2月に渡米してオレンジカウンティで語学研修をすること、卒業式は出られないことなどを、黄色のコートを着たままで、君はいろいろ説明する。君の言葉は卒論でフル回転していた僕の頭の中に流れ込んでそこに留まるだけだった。

僕は「わかったよ。お別れだね。」と言った。焦りを知らない昔の自分に戻った気がした。悲しみをうまく感じることさえできなかった。そして、2月になって君は本当にロサンゼルスへ行ってしまった。

卒業式間近の3月のことだった。アパートから大学への細い道をのんびり自転車で下っていた。花々が咲く庭が両側に見えた。花に見とれていると、歩き始めたばかりの女の子が、急に道に出てきた。僕は急いで自転車を停めた。自転車を降りて女の子を抱き上げたとき、母親らしい女性が「すみません」と言いながら、子供を追いかけてきた。僕は母親にその子を預けて再び自転車に乗った。

真っ白な上着から伝わる幼い子供の体温が手に残っていた。子供がこんなにも温もりをもっているとは。僕はひどく驚いていた。そして、命は暖かいものなのだと考えた。子供の温もりとともに、日差しも暖かだった。思わず、春なんだな、とつぶやいていた。 

事務局へ行って卒業関係書類を提出した。これで学生生活が終わりを告げる。モラトリアム(執行猶予)の時代は終了したのだ。

図書館の前にあるベンチに腰掛けて、キャンパスを見渡した。この春入学する高校生がキャンパスを見て回っているのが見えた。ふと4年前の記憶が浮かび上がる。

アパートを決めて、テーブルや小さな物入れや布団と、段ボール箱2つを部屋に入れた。6畳がとても広く感じられた。一人暮らしの期待よりその不安が大きくなってきて、胸が少し痛んだのをよく覚えている。

立ち上がって学部の方へ行ってみる。茶色い学部の建物は遠慮がちにキャンパスの端にある。その茶色に近づくと、急に思い出があふれ出した。

英米文学専攻の学生は、みんな真面目だった。英語が好きで文学を愛していた。講義では意見交換が活発だった。僕は感心してばかりで90分が終わっていった。ある講義で「白鯨」を読んだが、翻訳を読んでも何もわからなかった。シェイクスピアの作品はどうにも馴染めなかった。

そういえば、フランス語の試験のとき、歴史専攻の学生がカンニングをさせてくれ、と頼み込んできたことがあった。僕は迷ったが、見せてやった。それから会っていないけど、あいつはどうしたのだろう。

使っている英語が簡単だったので、ヘミングウェイの作品を読んで卒論を書こうとした。言葉足らずの英語に「白鯨」以上に苦労した。彼は、マッチョではなく神経の細い作家だったと、後から知った。氷山は7分の1だけ海の上に見えていて大部分は海の下にある、というような文体は、その繊細さが産み出したのだ。ちなみに、卒論の発表会では、シェイクスピアの先生に、「がんばりましたね、努力が見えましたよ。」と大学で初めて誉められた。

学部を後にして自転車置き場まで歩いた。なぜか眼の中に涙が溜まる。卒論で苦しんでいたあの夜の、君の後ろ姿を思い出していた。悲しげな後ろ姿が心に浮かんだのだ。同時に僕は今になって涙する自分を責めていた。

ココアを飲む君、空腹で不機嫌な君、まじめに意見する君、鎌倉ではしゃいでいる君、居酒屋で僕の腕にすがって泣く君・・・

4年間は心の中にきちんとしまっておきなさい。前へ進まなきゃダメでしょ!

君にはっきり言われた気がした。僕は君に向かって「いろいろあったね。これからがんばるから。」と心の中でつぶやいた。それから溜まった涙を瞳の奥に収めて、自転車に乗った。

4月、東京の桜が散る中、僕は重い足取りで職場へ向かう。桜吹雪の薄紅色が眼に入ると突然、4年間の思い出を収めたガラスケースが心の奥から上昇する。

君も僕もみんなも、がんばっている。生きている。抱き上げた幼子と同じ熱を持って。

僕がケースの中をもっと見ようとするとすぐに、ガラスケースは心の奥へ戻っていく。それでも、僕の心は熱くなり、歩みが少しだけ軽くなる。そして、新たな世界への期待が高まっていく。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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